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ジャックと3人の巨人

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 106]
 
ある村に、ジャックという名の貧しい農夫の息子がいました。とても元気でかしこいので、「知恵ものジャック」といわれていました。

ある日、村の人たちがジャックのところにやってきて、こういいました。「むこうにみえる山の穴ぐらの住みかに、コーモランという背の高さが5メートルもある巨人がすんでいるのを知っているよね。このごろ、あいつが、きゅうにあばれだして、村人や、牛やブタやヒツジを、さらっていくのだ。みんなで集まって、どうしたらやつを退治できるか話しあってるが、よい方法がみつからなくてね。それであんたに相談にきたんだ」するとジャックは、「それじゃ、わたしがやってみましょう」と、簡単に引き受けました。

その日の夕方、ラッパとシャベルを持ったジャックは、巨人の住む山へやってくると、さっそく仕事にとりかかり、よく朝までに、直径と深さがそれぞれ7メートルもある大きな穴をほりあげ、そこに長い棒とわらをかぶせてふたをし、その上に土を少しまいて、ふつうの地面とみわけがつかないようにしました。それからジャックは、巨人の住みかからみて、穴の反対側にすわりこむと、プップラ・プップラ・ブップラプー! とラッパを吹き鳴らしました。

その音で目をさました巨人は、住みかのまどからのぞいてみますと、若者がラッパをふいています。「うるさいやつだ。まるごとあぶって、朝飯にしてやるからな」と、さけびながら飛び出すと、ジャックめがけてかけだしました。そして、ジャックをつかまえようとしたとき、足が落とし穴をふんずけたために、ドスーン! 大きな地響きをたてて、巨人は穴におちてしまいました。「どうだ、らんぼう者をつかまえたぞ」というと、バタバタバタバタあばれる巨人の上に、どんどん土を投げこみましたから、さすがの巨人も力つき、死んでしまいました。

村人たちは大喜びで「巨人退治のジャック」と、たたえました。大てがらをあげたジャックのうわさは、国じゅうに伝わりました。東の巨人コーモランが殺されたことを知った西の巨人ブランダボアは、もしもジャックという男にであったら、しかえしをしてやろうと心にきめました。ブランダボアは、ひとけのない森の中の城に住んでいました。

そんなことを知らないジャックは、国じゅうを旅していたある日、森の中で迷ってしまいました。くたびれてしまったので、気持ちのよさそうな泉のそばに腰をおろすうち、ぐっすり眠ってしまいました。そこへ、あの巨人ブランダボアが水をくみにやってきたのです。旅人が寝てるなと、ふと旅人のベルトを見ると、「巨人退治のジャック」とあります。これが有名なジャックだと知ったブランダボアは、ひょいとジャックを肩にかつぎ、家につれていくとちゅう、ジャックは目をさましましたが、寝ているふりをしていました。

やがてジャックは、ブランダボアの城の大きな部屋に投げ入れられてしまいました。あたりを見ると、人間の骨がいちめんに並んでいます。ブランダボアは、近くに住む巨人の弟といっしょに、ジャックを食べようと考えて、弟をむかえにいきました。

巨人の兄弟が帰ってきたのをみたジャックは、部屋のすみにあった縄を2本取り上げると、それぞれの縄のはしに輪をつくり、もう一方のはしを天井のはりにかけておきました。巨人たちが城門を開けているとき、ジャックは「死ぬか生きるか、勝負だ」と、ふたりの頭をめがけて縄を投げました。縄の輪はうまくふたりの首にかかり、ジャックは天井のはりにかけてあった縄を、すばやく力いっぱい引っぱったものですから、巨人どもはのどをしめあげられてしまいました。

巨人たちの顔が黒くなりはじめたのを見たジャックは、縄を伝っておりていくと、剣をぬき、巨人兄弟を退治したのでした。

すごいねジャック、巨人を3人もやっつけたよ。


「12月5日にあった主なできごと」

1791年 モーツァルト死去…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家モーツァルトが亡くなりました。

1901年 ディズニー誕生…「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが生まれました。

1904年 日本軍が旅順203高地占領…日露戦争で日本軍は、ロシア軍の要塞があった旅順の203高地を3度目の総攻撃で占領に成功、戦局はいっきに日本軍が有利なものになりました。

投稿日:2013年12月05日(木) 05:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)