たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 100]
むかし、西国の殿さまのけらいの飛脚(ひきゃく)が、江戸にいるある殿さまへ、大切な手紙をとどけに、国を飛び出しました。船で大坂までいき、その後は、文箱というのを肩にかついで走り、東海道を東へ東へといきます。興津(おきつ)に宿をとり、朝暗いうちに宿を出て江戸をめざしました。
富士山を目の前に海岸を走り、さった峠という山の坂道を、海岸のほうからのぼろうとしていたときのことです。近くのそばの岩に、なにか動くものがありました。大きなタコが、小さな子どもにからみつき、海に引き入れようとしていたのです。子どもは泣き声をあげて、岩にしがみついていました。「こいつはまずい」飛脚は助けに走りました。
子どもと見えたのは1ぴきのサルでした。サルは飛脚の顔を見ると、顔をくしゃくしゃにして、キーキー鳴きました。飛脚は手紙の入った文箱をそばに置くと、石をひろって、タコに投げつけましたが、びくともしません。近くにあったこん棒をとってタコをたたきましたが、タコはたたかれるたびにサルをしめつけ、海の中へ引きこもうとします。しかたなく飛脚は、脇差(わきざし=みじかい刀)をぬくと、タコに切りつけました。するとタコは、もうかなわないと思ったか、サルをまいていた足をほどき、海の中に姿を消しました。
助けられたサルは、とてもうれしそうに水ぎわから砂浜にとびのき、じっと飛脚の顔を見つめました。「よかったな、あぶなく海に引きこまれるところだったぞ」飛脚がそういって脇差をおさめると、サルはどうしたことか、置いてあった文箱を持つと、峠ののぼり口のほうへかけあがっていったのです。飛脚はおどろいて後を追いかけました。峠の道は急で、飛脚の足でも、かけあがるのには大変でした。ところが、しばらくいっても、サルの姿がみえません。手紙をなくしてしまっては、江戸へ行くことも、国へかえることもできないのです。飛脚はあたりを見まわし、あのサルが、文箱をどこかにすてていないか探しましたが、どこにも見つかりませんでした。
こまり果てた飛脚が、ぼうぜんとすわりこんでいると、サルの鳴き声がします。声のするほうを見ると、何びきかのサルがやってきました。その中に、文箱をもったあのサルがいました。おまけになにかコモで包んだ長いものをもっています。飛脚が立ち上がって待っていると、サルは飛脚に近よってきて、文箱とコモ包みを置いていきました。飛脚は文箱を手に取ると、ほっとためいきをつきました。そして、包みをといてみると、中から白木のさやに入った刀が出てきました。
サルはそれを見ると、ペコンと頭を下げ、なかまたちと山の方へ帰っていきました。サルがどこからその刀をもってきたのかわかりませんでしたが、飛脚はぶじに江戸の殿さまのお屋敷に手紙をとどけました。
飛脚は、すぐに名高い刀鍛冶(かじ)のところへもっていって、品定めをしてもらいました。すると、その刀には、五郎正宗の銘が入っています。むかし、日本でいちばんといわれた人がこしらえた刀かもしれないと、刀鍛冶が研いでみると、少しの傷もない名刀そのものでした。国にもどった飛脚は、殿さまに刀のいきさつを話し、殿さまに献上しました。殿さまはたいそう喜び、飛脚はたくさんのほうびをもらいました。
殿さまは、サルからもらった刀だということで、「サル正宗」という名をつけて、家の宝として、いつまでもたいせつに残したということです。
「9月19日にあった主なできごと」
1870年 平民に苗字…明治政府は戸籍整理のため、これまで武士の特権とされてきた苗字の使用を、平民にも許可しました。しかし、めんどうがってなかなか苗字をつけない人が多く、5年後の1875年2月には、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられました。
1902年 正岡子規死去…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が亡くなりました。