<?xml version="1.0" encoding="Shift_JIS"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>児童英語・図書出版社　社長のこだわりブログ</title>
      <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/</link>
      <description>30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
      <lastBuildDate>Mon, 06 Sep 2010 09:41:21 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>初の世界周航</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日9月6日は、スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだマゼラン隊の一せきが、1522年に人類初の世界一周をはたした日です。
</p>
<p>
ポルトガルの下級貴族の家に生まれたマゼランは、25歳のころ、ポルトガル軍の艦隊に入って初の航海に出ました。その後、インド洋やマラッカの海を8年間も航海したことで、海や地理についてはだれにも負けない知識を得ました。さらにマゼランは、いざというときの判断がするどく、人をまとめる力がすぐれていました。
</p>
<p>
航海者としての自信のついたマゼランは、ポルトガル王にモルッカ諸島（インドネシア周辺の島じま）への西回り航路開拓計画を話しました。しかし受け入れてもらえなかったため、スペイン王カルロス1世に面会し、同様の計画を熱心に語りました。カルロス1世は心を動かされ、マゼランと契約を結び、艦隊の長に任命したのでした。
</p>
<p>
こうして1519年9月、5せきの船隊が265人の男たちを乗せて、スペインのサンルカル港をはなやかに出航しました。マゼラン艦長の乗るトリニダット号を先頭にサン・アントニオ号、コンセプション号、ビクトリア号、サン・チャゴ号とつづきます。
</p>
<p>
マゼラン隊は、それから1年もかけて南アメリカの大西洋岸を南に南に、手探りのように船を進めました。そして1年1か月後に、黒ずんだ水が大きく開いたぶきみな入江を見つけました。これが南アメリカ大陸南端とフェルゴ島のせまい海峡(マゼラン海峡)でした。水路はまがりくねり、潮流が早く、水中には岩がかくれています。20日近くもの大変な苦労の末、この海峡をのりきりました。
</p>
<p>
こうして南太平洋に到達しましたが、太平洋はどこまで行っても、つきるところがありません。すぐに見えてくるだろうと思われた島じまの影は、行けども行けども現われてきません。100日以上もさまよいつづけ、グアム島をへてフィリピン諸島につきました。しかし喜びもつかの間、原住民との小ぜりあいのなかで、マゼランは殺されてしまいました。
</p>
<p>
一行は、新たなリーダーにエルカノを選び、モルッカ諸島で香辛料を手に入れた後、アフリカ南端の喜望峰を回って帰国したのでした。はじめ5せきだった船は、ビクトリア号だけになり、乗組員はわずか18人だけでした。
</p>
<p>
しかしこの世界周航の成功により、大西洋、インド洋、太平洋を結ぶ新たな交易ルートが開拓され、それまでの地中海交易に代わって、ヨーロッパを中心とした世界規模の大航海時代に突入するのです。
</p>
<p>
なお、マゼランの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第4巻 「<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/mazeran/index.html">マゼラン</a>」をご覧ください。
</p>
<p>
<br />
「9月6日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1858年　広重死去&hellip;「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden30-3.html">安藤(歌川)広重</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1998年　黒沢明死去&hellip;『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-13.html">黒沢明</a> が亡くなりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1009.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1009.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Sep 2010 09:41:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ベトナムの 『ホーおじさん』</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日9月3日は、ベトナムの革命家で、フランス植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導したホー・チ・ミンが、1969年に亡くなった日です。
</p>
<p>
ベトナムは、19世紀の中ごろからフランスに侵略され、1885年からは、国の全土がフランスの植民地になっていました。
</p>
<p>
「ベトナム民族のために、祖国を独立させなければだめだ」
</p>
<p>
1890年に生まれ、幼いころから国を愛する心をあたためてきたホー・チ・ミンは、祖国を救う志をたてて、21歳のとき、ベトナム中部のふるさとの村をあとにしました。そして、イギリス、フランス、中国、ソ連などで、苦しい労働や侵略国の圧迫と闘いながら、革命の思想を学びました。また、やがて革命の旗をかかげるときにそなえて、民族の自由をとなえる人びとの組織を育てました。
</p>
<p>
1939年、第2次世界大戦が始まりました。ホー・チ・ミンは、その2年後に、胸の灯をあかあかともやして、祖国へ帰ってきました。30年ぶりでした。このとき、ベトナムには、太平洋戦争に勝ち進んだ日本軍が侵入してきていました。
</p>
<p>
「フランス植民地主義と戦え。日本の帝国主義と戦え」
</p>
<p>
ホー・チ・ミンは、ベトナム独立同盟を結成して、立ちあがりました。苦しい戦いでした。1942年には、革命に反対する軍隊にとらえられ、1年以上のあいだ、くさりにつながれて各地をひきずりまわされました。しかし、屈しませんでした。
</p>
<p>
1945年、第2次世界大戦が終わると同時に、ベトナム民主共和国の独立を宣言して、初代の大統領となりました。独立宣言を読みあげるホー・チ・ミンの目から、熱い涙がこぼれました。
</p>
<p>
ところが、大きな困難が立ちふさがりました。ベトナムの植民地支配の権力をとりもどそうとするフランスが、南ベトナムと手をむすんで、またも、進入してきたのです。
</p>
<p>
「われわれは、二度と他国のどれいになってはならない」
</p>
<p>
ホー・チ・ミンは、民族の力をひとつにして戦いぬき、1954年に、フランス軍を打ち破りました。でも、戦争は、まだ終わりませんでした。フランスにかわって、こんどはアメリカが南ベトナムをあやつりながら、空軍による北ベトナム爆撃を開始して、戦いは、ベトナム戦争へ発展しました。
</p>
<p>
「ベトナムの統一と平和は、民族の力でなしとげるのだ」
</p>
<p>
ホー・チ・ミンは、民族の自由を叫んで戦いつづけました。しかし、1969年、戦いのとちゅうでたおれてしまいました。
</p>
<p>
79歳の生涯を革命にささげたホー・チ・ミンは、自分の幸せなど考えませんでした。いつも、すべてのベトナム民族を愛し、人びとから「ホーおじさん」と、親しまれました。戦争が終わり、ベトナム社会主義共和国が生まれたのは、1976年でした。
</p>
<p>
<br />
「9月3日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1189年　奥州藤原氏滅亡&hellip;平泉(岩手県)を中心に藤原清衡・基衡・秀衡と3代、およそ100年も栄えた藤原氏でしたが、<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yositune/index.html">源義経</a> をかくまったために、源頼朝軍に滅ぼされました。清衡の建造した中尊寺金色堂(国宝)には、藤原氏4代のミイラが残されています。
</p>
<p>
1658年　クロンウェル死去&hellip;イングランド共和国の初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名) <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden06-03.html">クロンウェル</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1841年　伊藤博文誕生&hellip;明治時代の政治家で、初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣になった <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/hirobumi/index.html">伊藤博文</a> が生まれました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1008.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1008.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 03 Sep 2010 09:12:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『茶の本』 の岡倉天心</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日9月2日は、明治期に活躍した美術家、美術評論家で、茶道をとおして日本人の心や日本の文化を外国に紹介した名著『茶の本』を遺した岡倉天心が、1913年に亡くなった日です。明治時代の日本の文化や文明の発展に大きな功績を残した教育者でもありました。
</p>
<p>
岡倉天心は、江戸時代があと数年で終わろうとする1862年年末に、横浜に生まれ、本名を覚三といいました。天心は号です。
</p>
<p>
幼いころから英語、漢学を学び、やがて家族とともに東京へでた天心は、わずか11歳で東京外国語学校へ入学しました。そして、さらに東京開成学校から東京大学文学部へ進み、このとき、アメリカから日本へきていた哲学者フェノロサに、哲学や文学や美術を学んで、思想と知識を深めていきました。
</p>
<p>
18歳で東京大学を卒業すると文部省へ入り、音楽取調掛を2年つとめたのち、フェノロサとともに、古い神社や寺院の宝物調査をおこないました。22歳のときに、秘宝とされていた法隆寺夢殿の救世観音菩薩像を見る機会にめぐまれ、たいへん心をうたれました。
</p>
<p>
｢東洋の美術は、世界で最もすばらしいものだ｣
</p>
<p>
このように確信するようになった天心は、9か月ほど、アメリカやヨーロッパの美術を視察してきたのち、東京美術学校（いまの東京芸術大学）の創立にくわわり、28歳から校長として、学校の経営と学生の指導に力をつくすようになりました。
</p>
<p>
ところが、8年後には校長をしりぞかなければなりませんでした。天心の、自由な考えや強い個性に反対する人びとが現われ、学校を追われたのです。しかし、そのまま、日本の美術を見捨てるような天心ではありません。なおいっそう心をもやした天心は、美術学校で育てた横山大観、下村観山らをひきつれて、日本美術院をつくり、新たな美術運動を始めました。
</p>
<p>
39歳のときには、インドへ旅をして、インド独立をめざして戦う人びとに心をよせました。また、3年後には、招きを受けてアメリカのボストン美術館の顧問をつとめ、さらにその後も、何度も太平洋、大西洋を越えて、世界じゅうに、日本の美術のすぐれていることやアジアの解放を、となえつづけました。ニューヨークで、英文の『茶の本』を出版したのも、このころです。やはり英文で『東洋の理想』『日本の目覚め』なども著わしています。
</p>
<p>
自分の思想のために力の限り生きた天心は、1913年に50歳の生涯を終えました。味わい深い日本文化をたたえる思想は、いまも『茶の本』のなかに生き続けています。
</p>
<p>
なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html">茶の本</a>』 を翻訳で読むことができます。
</p>
<p>
<br />
「9月2日にあった主なできごと」
</p>
<p>
BC31年　アクチュームの海戦&hellip;シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。
</p>
<p>
1937年　クーベルタン死去&hellip;古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。
</p>
<p>
1945年　日本の降伏&hellip;東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。
</p>
<p>
1949年　アジア象はな子&hellip;タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。63歳の今も健在です。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1007.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1007.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Sep 2010 09:07:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『宵待草』 の竹久夢二</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日9月1日は、大正ロマンを代表する数多くの美人画を遺した画家・詩人の竹久夢二が、1934年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1884年、岡山県の酒造業を営む家に生まれた夢二(本名茂次郎)は、17歳で画家をめざして上京し、早稲田実業学校に通いながら絵ハガキを描いては、学校周辺の絵ハガキ店に売って生計をたてていました。
</p>
<p>
このころ、友人だった荒畑寒村の紹介で社会主義雑誌『直言』にコマ絵が掲載され、これが最初に印刷された夢二の絵でした。この後、童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描いたり、文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作したりしました。
</p>
<img alt="Kurofuneya.jpg" src="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/img/Kurofuneya.jpg" width="120" height="324" />

<p>
1907年、岸たまきと結婚、彼女をモデルに「夢二式美人」という目の大きな、もの憂い表情を特長とする独自の女性を描くようになりました。たまきとは、貧乏暮らしに疲れて2年後に離婚したということですが、離婚後も同棲をくりかえしています。
</p>
<p>
まもなく読売新聞社に入社して時事スケッチを担当したりしましたが、1909年に『夢二画集−春の巻』を発刊したところ、ベストセラーとなり、挿絵画家として一本立ちできるようになりました。
</p>
<p>
1913年に絵入り小唄集『どんたく』を出版し、その中に『宵待草』「♪ まてどくらせどこぬひとを　宵待草のやるせなさ　こよいは月もでぬそうな」の三行詩が掲載されていました。
</p>
<p>
この詩に曲をつけさせてほしいという手紙が東京音楽学校の学生から夢二に届き、許可を与えると叙情的なメロディのついた楽譜が送られてきました。この曲は、1918年に出版され、演歌師によって全国に広まって大ヒットになりました。
</p>
<p>
その後の夢二は、独特の情趣ある絵や画集を多く発表したばかりか、書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけ、まさに日本の近代グラフィック・デザイナーの草分けのひとりともいえる活躍をしました。
</p>
<p>
しかし晩年は、欧米から帰国後、肺結核を悪化させて信州の病院で息をひきとりました。
</p>
<p>
<br />
「9月1日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1923年　関東大震災&hellip;午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。
</p>
<p>
1939年　第2次世界大戦&hellip;ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。
</p>
<p>
1960年　防災の日&hellip;前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。
</p>
<p>
1983年　大韓航空機撃墜される&hellip;ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1006.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/09/post_1006.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 01 Sep 2010 10:01:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>日本近代医学の恩人・ベルツ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月31日は、明治時代初期に日本に招かれたドイツ人医師で、26年にわたって医学を教え、日本医学界の発展に尽くしたベルツが、1913年に亡くなった日です。
</p>
<p>
明治新政府ができたとき、欧米の進んだ文化や学問や技術をとりいれて、いち早く欧米に追いつきたいと考えました。そのために、たくさんの外国人教師を招きましたが、そのなかでも特に立派な人格と優れた指導力で、日本人に大きな影響力を与えたばかりでなく、日本文化の研究をして海外に紹介した人たちも少なくありませんでした。そんななかでも、ベルツは第一級の人物で、これまでの日本の医学が蘭学中心だったのに対し、明治以降の西洋医学がドイツ中心になったのも、ベルツの影響といってもよいようです。
</p>
<p>
1849年に、南ドイツのビーティヒ・ハイムで生まれたエルウィン・ベルツは、チュービンゲン大学で医学を修め、ライプツィヒ大学で臨床を学びました。見習軍医としてプロイセン・フランス戦争に従軍後に復学して医学博士となりました。たまたま、ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生を治療したことで日本との縁が生まれ、1876年、東京医学校（現在の東京大学医学部）の教師として招かれました。
</p>
<p>
当初ベルツは、生理学を教えていましたが、内科、産婦人科を講じるようになりました。さらに、皇室の待医や、明治の元勲といわれる政治家たちの診療をしています。日本滞在は、2年間の予定でしたが、日本が気に入って、1881年には日本人の妻花子と結婚し、一男一女をもうけました。
</p>
<p>
こうしてベルツは1905年に、妻を伴って帰国するまで29年間日本に滞在しましたが、この間に記していたのが有名な「ベルツ日記」です。明治時代前半の生きた文化史ともいわれ、皇室、政治家からはじまって、一般市民の風俗や文化、意識構造までも細かく観察、分析した第1級の史的資料とされています。
</p>
<p>
そして、ベルツの日本における最大の貢献は、ドイツ医学の「研究」の方法論を800人以上もの学生たちに伝え、日本に多発していた寄生虫病、脚気（かっけ）などの究明に手をつけたことでした。いわばヨーロッパが生み出した近代科学の思想と方法を日本に体系的に伝えた最初の外国人といってよいでしょう。
</p>
<p>
<br />
「8月31日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1957年　マラヤ連邦独立&hellip;19世紀後半からイギリスの支配下にあったマラヤは、マラヤ連邦として独立宣言をしました。なお、マラヤ連邦は、1963年にイギリス保護国だった北ボルネオ他と統合し「マレーシア」となりました。
</p>
<p>
1997年　ダイアナ妃交通事故死&hellip;イギリスの元皇太子妃ダイアナが、パリ市内で不慮の交通事故で亡くなりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1005.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1005.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 31 Aug 2010 08:51:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「原子物理学の父」 ラザフォード</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月30日は、ニュージーランド出身・イギリスで活躍した実験物理学者で「原子物理学（核物理学）の父」と呼ばれるラザフォードが、1871年に生まれた日です。
</p>
<p>
すべての自然科学の研究のなかでも、特に注目されているのが原子や原子核についての研究です。その原子物理学のもとになる新しい考え方をいくつも生み出し、実験で証明して発展の道をきりひらいたのが、1908年にノーベル賞を受賞した、アーネスト・ラザフォードです。
</p>
<p>
1871年、ラザフォードはニュージーランドの開拓民の家に生まれました。小さいときから勉強熱心で、好奇心が人一倍強く、実験をしたり、道具の組みたてをするのが好きでした。
</p>
<p>
ニュージーランドの大学で学んだのち、1895年にイギリスへ渡り、ケンブリッジ大学のキャベンディシュ研究所に入学しました。すでに物理学の研究を生涯の仕事と決めていたラザフォードは、その熱心さが認められて、電子を発見したトムソン教授のもとで指導をうけることになりました。研究所でラザフォードが始めた実験は、エックス線を気体にあてて電離させる研究でした。
</p>
<p>
このころ世界では、現代の物理学の出発ともいわれるような発見がたくさんありました。ドイツの <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden12-6.html">レントゲン</a> のエックス線や、フランスのベクレルの放射線の発見などです。
</p>
<p>
ラザフォードも負けてはいません。1898年、カナダの大学に教授としてまねかれると、いままで以上に研究や実験をくりかえし、アルファ線、ベータ線の発見をしました。また、科学者ソディと協力して、これまで永久に変わらないものと考えられていた原子が、変化をするという画期的な考えも発表しました。
</p>
<p>
やがて、ふたたびイギリスにもどると、1911年には、アルファ線の散乱を調べて、原子が核をもつことも明らかにしました。トムソン教授のあとをついで、48歳のとき、キャベンディシュ研究所の所長になったラザフォードは、研究への情熱を、ますます燃えあがらせました。
</p>
<p>
ラザフォードは、自分だけの研究に没頭するのではなく、ラザフォードの指導のもとに、助手のチャドウィックが中性子の発見で、コッククロフトとウォルトンが加速器を使った元素変換の研究で、アップルトンが電離層の研究でそれぞれノーベル賞を受賞するなど、おおくの研究者のなかから、ノーベル賞受賞者を10人近くもだすほどでした。
</p>
<p>
研究と実験をかぎりなく愛し情熱をそそいだラザフォードは、研究活動が最高潮だった1937年の秋、とつぜん病気にかかり、66年の偉大な生涯を閉じたのでした。
</p>
<p>
<br />
「8月30日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1748年　ダビッド誕生&hellip;フランスの古典派の代表的画家ダビッドが生まれました。(2008.4.4ブログ <a href="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2008/04/post_521.html">「皇帝ナポレオンの戴冠」</a> 参照)
</p>
<p>
1871年　国木田独歩誕生&hellip;「武蔵野」 「牛肉と馬鈴薯」 「源叔父」 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden34-07.html">国木田独歩</a> が生まれました。
</p>
<p>
1945年　マッカーサー来日&hellip;第2次世界大戦後、日本は連合国軍司令部(GHQ)の統治下におかれました。その最高司令官に任命されたのがアメリカのマッカーサー元帥で、神奈川県の厚木飛行場におりたちました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1004.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1004.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 30 Aug 2010 08:10:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「スラムの聖女」 マザー・テレサ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月27日は、インドのカルカッタにあるスラム街で「長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした」としてノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサが、1910年に生まれた日です。今年は、テレサ生誕100年にあたります。
</p>
<p>
マザー・テレサの本名は、アグネス・ゴンジャ・ボワジュといい、旧ユーゴスラビア(現マケドニア)の古都スコピエの裕福な商人の家に生まれました。両親ともに熱心なカトリック信者で、アグネスも幼いころから教会へかよいました。12歳のときに、貧しさに苦しむインドという国があること、そこで献身的な行動をする宣教師の話を神父から聞き、いつか自分も、貧しい人たちのために生きたいと考えるようになりました。
</p>
<p>
18歳になったとき、アイルランドにあるロレット修道会が修道女をインドへ派遣していることを耳にしました。さっそく、両親に修道女になりたいと話すと、「もう二度と家にもどれない覚悟があるか」と聞かれ、しっかりうなずくのでした。こうしてダブリンの修道会本部へいき、志願する何人かのシスターたちと共にインドへ渡りました。&nbsp;
</p>
<p>
2年後に「テレサ」に改名すると、ロレット修道会の経営する学校で先生になり、やがてこの学校の校長にまでなりました。ところが、1946年のある日、ヒマラヤにあるダージリンに向かう列車の中で、「貧しい人の中でも一番貧しい人たちのなかで神に仕えなさい」と内なる神の声を聞きました。この声こそが、その後のテレサの生き方を決定づけたといってよいでしょう。
</p>
<p>
ロレット修道会を出て、もっとも貧しい人々の中にはいることを決意したテレサは、カルカッタ大司教とローマ法王に修道会の外に出て活動する許可を求めました。でも、修道女が修道会の外に出ることは原則として許されません。テレサの熱心な願いは、ついに聞き届けられ、2年後に例外的に許可がおりました。
</p>
<p>
テレサが、カルカッタのスラム街に入っていったとき、ポケットにはわずか5ルピーがあるだけでした。テレサの活動は、地面に棒で文字を書いて字を教える青空教室から始まりました。わずか5人からスタートした教室も毎日のように新しい子どもが顔を見せ、1週間後には100人にふくれあがりました。テレサのうわさをきいたロレット修道院時代の教え子も仕事を手伝い、家を提供してくれる人やお金を寄付してくれる人も現われはじめました。このようにしてテレサの拓いた生活共同体は1950年、ローマ法王から、修道会「神の愛の宣教者会」として認可され、このころから「マザー・テレサ」と呼ばれるようになりました。「マザー」は指導的な修道女への敬称です。
</p>
<p>
1952年になるとテレサは、路上で死にそうになっている人や重症の人たち収容し、最期をみとる施設「死を待つ人々の家」を開設しました。ヒンズー教徒の多い住民の強い反対がおこりましたが、コレラで死にそうなヒンズー教徒の僧を引き取り、死をみとったことがきっかけになって、住民のテレサを見る目が変わっていきました。さらにテレサは、孤児救済のため「聖なる子供の家」を開設、ハンセン病患者専門の診療施設をつくるなど、献身的な活動をインド各地に広げていくのでした。
</p>
<p>
1979年「高貴な人間愛の象徴」としてノーベル平和賞を受賞したテレサの授賞式でのスピーチは、世界の人たちを感動させました。「私は皆さんが考えておられるようなノーベル平和賞の受賞者にはあたいしません。でも、だれからも見すてられ、愛に飢え、死にひんしている世界のもっとも貧しい人びとにかわって賞を受けました。私には、受賞の晩さん会は不要です。どうか、その費用を貧しい人たちのためにおつかいください」──と。
</p>
<p>
受賞後も、テレサの行動は少しも変わりませんでした。朝4時に起床、シスターたちといっしょに、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活です。しかし、1996年頃から心臓発作を起こし始め、持病のマラリアも再発して、1997年9月貧しい人々へ愛を送り続けた87年の生涯を終えました。葬儀はインド政府による国葬として行われ、各国から1万人以上も参列し、人々が沿道をうめつくしたといいます。テレサがいかに宗教や民族を越えた偉大な人物であったかを物語っているかのようです。2003年には、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、福者（聖人の次位者の称号）に列せられました。
</p>
<p>
<br />
「8月27日にあった主なできごと」
</p>
<p>
紀元前551年　孔子誕生&hellip;古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/koushi/index.html">孔子</a> が生まれたといわれます。
</p>
<p>
663年　白村江の戦い&hellip;当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘しましたが、翌日に敗れてしまいました。
</p>
<p>
1714年　貝原益軒死去&hellip;江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden26-7.html">貝原益軒</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1859年　安政の大獄&hellip;大老 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden30-7.html">井伊直弼 </a>は、水戸の徳川斉昭を永蟄居(ながのちっきょ)、15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)を隠居謹慎を命じました。これを恨んだ水戸浪士たちは、翌年3月桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。
</p>
<p>
1957年　日本初の原子の火&hellip;茨城県東海村にある原子力研究所の原子炉で、初めて「原子の火」が灯りました。この原子炉は、ウランなどが原子核反応によって得たエネルギーを、発電用に利用するために建設されたものです。
</p>
<p>
1969年　「男はつらいよ」第1作公開&hellip;山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズ「男はつらいよ」第1作が公開されました。シリーズは48作にもおよび、国民的映画シリーズとなって、ギネスブックの世界最長記録にも認定されました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1003.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1003.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 27 Aug 2010 09:13:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>近代化学の父・ラボアジエ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月26日は、従来の化学理論を次々と正し、実験で証明したフランスの偉大な科学者ラボアジエが、1743年に生まれた日です。しかし1789年にはじまったフランス革命によって命を奪われた悲劇の人でした。
</p>
<p>
アントワーヌ・ローラン・ラボアジエは、パリの恵まれた家庭に生まれました。父は弁護士で、母も弁護士の家に育った人です。幼いころから名門校に通い、すぐれた教育をうけたラボアジエは、勉強が何よりもすきだという少年時代を過ごし、やがて大学にすすんで、法律を学びます。
</p>
<p>
しかし、関心はしだいに自然科学の方面へむいていきました。化学をはじめとして地質学、植物学、天文学など、広く学びました。23歳の時、早くも都市の夜間照明についての論文を書いて、化学アカデミーから金メダルを受賞しました。ラボアジエが手がけた研究は、いろいろな分野にまたがっています。その中でも、元素の研究は、近代科学の橋渡しとなった、もっとも輝かしい業績です。
</p>
<p>
それまでは、火と水と土と空気の4種類が元素であると信じられていました。ラボアジエは、さまざまな実験をくり返し、4元素説が間違いであることを証明しました。そして、新たに酸素、窒素、水素など30種の元素が存在していることを確かめました。ラボアジエが、これらの研究結果をもとに出版した『化学教科書』は、近代科学の道しるべとして高い評価をうけました。
</p>
<p>
ラボアジエの活躍によって、化学は急速な進歩をとげました。しかし、社会のしくみやしきたりは、古い形で根強く残っていました。人びとは、不合理な制度にしばられて、苦しい生活にひたすら耐えていました。多くの不公平は、少しも改善されずに、不満はふくれ上がるばかりでした。そして、人びとの不満は、絶対王政へのはげしい敵意となって、フランス革命に発展しました。きびしい追及が始まり、ラボアジエにまで非難がおよびました。ある時期、徴税請負人という、税金をとりたてる仕事をしていたからです。どんなに貧しく困っている人からも、むりやり集金していくので、たいへん憎まれた職業でした。
</p>
<p>
ラボアジエは、革命の嵐にまきこまれ、1794年51歳の年に断頭台で処刑されてしまいました。学者をはじめとして多くの人が、ラボアジエの死を悔やみました。フランス国民は、とり返しのつかないことに気がつき、罪人の名をとり消して、ねんごろに葬儀を営んだそうです。
</p>
<p>
<br />
「8月26日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1789年　フランス人権宣言の採択&hellip;フランス革命で、バスティーユ牢獄の襲撃をはじめその後の動乱が落ち着いたこの日、国民議会は憲法の前文にあたる「人間と市民の権利宣言」(人間宣言)を採択しました。アメリカの独立宣言を範としたこの宣言は17条からなり、権利の平等、人間が当然の権利として持つ自由、主権在民、思想・言論の自由、所有権、安全、圧政に対する抵抗権の確認などの原則が示されています。この民主主義の考え方は、新しい市民社会の原理となりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1002.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1002.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 26 Aug 2010 09:15:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>｢近江聖人」 中江藤樹</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月25日は、人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして ｢近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者・中江藤樹(なかえ とうじゅ)が、1868年に亡くなった日です。
</p>
<p>
中江藤樹は、江戸幕府が開かれてから5年後の1608年に、近江国（滋賀県）で生まれました｡父は農民でしたが、藤樹は8歳で、武士の祖父のもとへ養子としてひきとられました。そして、6年ののちに祖父が亡くなると、祖父にかわって、伊予（愛媛県）の大洲藩につかえるようになりました。
</p>
<p>
藤樹は、子どものころから学問が好きでした｡10歳をすぎたころから、中国の孔子の教えを説いた儒学を学び、人間が守らなければならない道を、深く考えるようになりました｡学問の力がみとめられて、わずか18歳で村の政治や裁判をつかさどる郡奉行にとりたてられたとき、藤樹の前にでたものは、だれもうそがつけなかったということです。
</p>
<p>
ところが1634年、26歳の藤樹は大洲藩をしりぞいて、生まれ故郷の近江へ帰ってしまいました｡父はすでに亡くなり、近江には母がいました｡藤樹は、母へ孝行をつくすために近江へ帰りたいという願いを、藩へだしたのです。でも、藩は、藤樹の才能を惜しんで、その願いを許しませんでした｡そこで、ひそかに藩をぬけだして、母のもとへ帰ってしまいました｡ しかし、ほんとうは、このとき藤樹は、学問をあまり重くみない武士の生活が、いやになっていたのだろうといわれています。
</p>
<p>
武士を捨てた藤樹は、家で酒を売って母をやしないながら、塾を開いて、村の人びとに学問を教え始めました｡
</p>
<p>
藤樹は、だれにも親切に、人間の正しい生きかたを説き聞かせました｡そして、自分は、秩序正しい社会をきずくための人の道を教える朱子学を学んだのち「人の道は、知るだけではいけない。正しいことを知ったら、すぐ実行しなければいけない」と説く陽明学へ進み、やがては日本の陽明学をうちたてました。
</p>
<p>
藤樹の名は広まり、たくさんの弟子が集まりました｡のちに陽明学の大家になった熊沢蕃山も、そのひとりでした。蕃山が弟子入りにきたとき、藤樹は、自分は田舎ものの学者にすぎないことを告げて、ことわりました。でも、蕃山は、ひと晩じゅう外にすわったまま立ち去ろうとせず、ついに藤樹は、その熱心さに心をうたれて入門を許したということです｡
</p>
<p>
藤樹は、『翁問答』『鑑草』などおおくの本を残して、40歳で亡くなりました｡ 弟子を大切にした教育者でした｡
</p>
<p>
<br />
「8月25日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1543年　鉄砲伝来&hellip;ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えました。(<a href="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2008/08/post_603.html">2008.8.25 </a>ブログ参照)&nbsp;
</p>
<p>
1830年　ベルギー独立革命&hellip;ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。
</p>
<p>
1944年　連合軍のパリ解放&hellip;北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいフランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは解放されました。解放運動の指導者 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden17-4.html">ド・ゴール</a> が凱旋門に現われると、パリ市民は熱狂的な歓声で迎え、パリは4年ぶりにパリ市民の手にもどりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1001.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1001.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 25 Aug 2010 08:34:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ポンペイ最後の日</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月24日は、イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、紀元79年のベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれた日です。ポンペイは、18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が一般公開されています。1997年には、古代ローマ人の暮らしぶりや文化遺産があざやかに残されているとして「世界遺産」に登録されています。
</p>
<p>
ポンペイは、古代ローマの貴族たちの保養地として栄えた町で、噴火当時の人口は1万数千人、そのうち2000人ほどが逃げ遅れて犠牲になったと推定されています。火山灰は、わずか1日足らずで5メートルの深さに町全体をつつみこみ、そののちも断続的にふりそそいで、町は完全に姿を消してしまいました。その上に草や木が生い茂り、ポンペイという町は忘れられてしまったのでした。
</p>
<p>
ポンペイが再び発見されたのは16世紀の終わりごろで、運河工事のときに偶然発見されました。そして、1748年から本格的な発掘がはじまりました。神殿や公衆浴場、闘技場などのほか、ポンペイとその周辺の別荘から次つぎに現れるローマ時代の壁画などの遺品の美しさに、世界じゅうの人々が驚きの声をあげました。それ以降、現在にいたるまで発掘がつづけられています。でもなぜ、ポンペイの壁画は豊かな色彩を失わなかったのでしょうか。
</p>
<p>
その理由は、町に降り積もった火山灰にありました。火山灰には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれていて、湿気を吸収する性質があったこと。そしてこの火山灰が町全体を埋めつくしたため、壁画や美術品の劣化を最小限に食い止めたことでした。
</p>
<p>
こうしてポンペイの悲劇は、皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになりました。ポンペイの町は、古代ローマの伝統を守って、ほぼ直角に交差する大通りによって区切られ、計画的に設計されていました。上下水道が整備され、きれいな水が町中に送られ、水道水の量を調節して出す仕組みなどは現在とほとんど変わらないというのも驚きです。通りの両側には石造りの家と店があり、当時の暮らしぶりをそのまま伝えています。
</p>
<p>
テーブルに並べられたままの食事や食器、人々が食べていた卵や焼いたままのパンや肉なども、こちこちに固まってはいるものの、くさることなく掘り出されました。コインや台所のつぼ、ペンを置くインクスタンド、子どものおもちゃ、象牙のクシなど等&hellip;&hellip;。クリーニング屋のような職業、貿易会社まであったこともわかりました。
</p>
<p>
イタリアへ旅行する機会がありましたら、ぜひポンペイまで足をのばすことをおすすめします。
</p>
<p>
<br />
「8月24日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1594年　石川五右衛門刑死&hellip;豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして、捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。
</p>
<p>
1897年　陸奥宗光死去&hellip;イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden32-5.html">陸奥宗光</a> が亡くなりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1000.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_1000.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 24 Aug 2010 08:11:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『三国志』 の英雄・諸葛孔明</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月23日は、中国の後漢末期から三国時代(魏・蜀・呉)・蜀(しょく)の軍略家である諸葛孔明（しょかつ こうめい）が、234年に亡くなったとされる日です。
</p>
<p>
『三国志』というのは、紀元184年後漢の霊帝即位のころから約100年間の時代をあつかった物語です。後漢の末期に国が乱れ、各地方政権の争いの中から、魏・蜀・呉の3国が生まれました。この3国もまた晋に統一されるという激動の時代を興味深く描いたもので、正式名は『三国志演義』といい、やはり国が乱れて統一された時代・元末から明の始まりのころ(1365年前後)に、羅貫中という人が書いたとされています。しかし、古くからの伝説や戯曲を集大成したものといったほうがよさそうです。
</p>
<p>
中国は、3世紀にはいると政治がみだれ、あちこちで豪族や武将が勢力をきそい、争いがはげしくなりました。そのなかで曹操と孫権の二人が、強い力をもっていました。やがて、劉備も天下統一をめざしてたちあがります。
</p>
<p>
劉備には、二人の強いけらいがついていました。でも戦略のうまいけらいがいません。国を建てるには、武力にくわえて知恵と知識のある人をみかたにすることが大切だと考えた劉備は、作戦のうまい人をさがしもとめていました。
</p>
<p>
そんなとき、壌陽の郊外に、諸葛孔明というかしこい青年がいることを聞きました。さっそく、劉備は馬を走らせましたが、会えません。季節が秋から冬にかわって、ふたたび孔明をたずねました。このときも会えませんでした。草木がいっせいに芽ぶく春、三たびおとずれました。3度めの訪問でやっと会うことができました。
</p>
<p>
劉備は孔明に、ぜひ力をかりたいと頼みました。孔明は、豪族の出身でしたが、戦乱をさけてひっそりと暮らしていましたので、なかなか承知しません。しかし、劉備が3度もむかえにきてくれたことに感激して、孔明は、家臣になることをちかいました。(このエピソードは「三顧の礼」として有名)
</p>
<p>
劉備の期待にこたえて、孔明のめざましい活躍が始まります。208年、荊州に攻めこんできた魏の国の曹操を、孔明は呉の孫権と手をくんでむかえうち、曹操を北に追いはらってしまいました。この戦いで、劉備は荊州を手に入れます。その後も領土を広げ、蜀の国を建てました。
</p>
<p>
そして、またたくまに蜀の国は、魏や呉とかたをならべるまでの勢力になりました。ここに中国全土を3つにわけてにらみあう、三国時代が幕開けとなったのです。
</p>
<p>
221年、国の名を蜀漢国として、劉備は皇帝となり、孔明は丞相という地位を与えられました。皇帝になった2年ご、劉備は重い病気にかかり、子の劉禅を孔明にたくして亡くなりました。孔明は、幼い皇帝の劉禅をたすけ、成長するにしたがって軍を指揮する方法や政治のあり方を教えました。その教えは、有名な『出師(すいし)の表』に記されています。
</p>
<p>
234年、孔明は魏の大軍とむかいあった陣地のなかで、病死しました。うわさをきいた魏の大将仲達は、蜀漢軍を一気につぶそうとしました。ところが蜀漢軍は、少しもあわてず、整然としています。仲達はまだ孔明が生きていると思い、あわてて兵をひきあげました。孔明は、それほどすぐれた政治家でした。
</p>
<p>
<br />
「8月23日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1868年　白虎隊の最期&hellip;明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳〜17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。
</p>
<p>
1879年　滝廉太郎誕生&hellip;明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が生まれました。
</p>
<p>
1914年　日本対ドイツ戦に参戦&hellip;第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_999.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_999.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 23 Aug 2010 08:34:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>近代中国を象徴する袁世凱</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月20日は、中国の軍人・政治家で、中華民国初代大総統となった袁世凱(えん せいがい)が、1859年に誕生した日です。
</p>
<p>
アヘン戦争(1839-42)でイギリスに敗れてからおよそ100年にわたる中国の歴史は、無尽蔵ともいうべき鉱産物を餌食にしようとするヨーロッパ諸国や日本、封建的な特権を持ち続け外国資本と結ぼうとする役人支配の清朝(満州人の王朝)、漢民族による新政府を打ち立てようとする革命勢力、これらの3つの勢力がしのぎをけずる1世紀といっても過言ではありません。この時代を生きた中心的で象徴的人物が、袁世凱でした。
</p>
<p>
河南省の大地主の家に生まれた袁世凱は、清朝の役人になる試験に不合格になってしまいました。そのため軍隊に入って朝鮮におもむき、いくつかの功績をあげて、新陸軍を結成するなど重用されるようになりました。1898年、清皇帝(光緒帝)がめざした政治改革に参加するもこれを裏切って、反対派の西太后らの信任を得て山東省の地方長官に出世しました。
</p>
<p>
1899年、反キリスト教の立場にたつ義和団という秘密結社が、外国人や外国商品をボイコットする「義和団事件」が華北一帯でおこり、英・米・日・露など8か国が軍隊を送ってこの事件をおさえました(北清事件)。この時袁世凱は、外国人を保護する立場にたったのを評価されて、1901年死去した清朝の総理大臣格である直隷総督大臣だった李鴻章のあとをひきつぎました。しかし、清朝の重臣たちの反発にあって、1908年むなしく故郷の河南へ帰りました。
</p>
<p>
1911年秋、<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden14-7.html">孫文</a> に率いられた漢民族の新政府をおこそうとする「辛亥革命」がおきると、総理大臣となり、軍隊の指揮権もみとめられて1912年、清の皇帝である宣統帝に退位をせまって、清王朝を滅亡させ、ひきかえに中華民国臨時大総統となりました。しかし、袁世凱が議会を無視する行動に出たために、各地の革命勢力が反発しました。武力でこれを鎮めて革命派を弾圧した袁世凱は、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化をはかりました。
</p>
<p>
こうして1913年には正式に中華民国大総統に就任、独裁政治を断行しつづけました。1915年、第1次世界大戦のため列強が中国から撤退したすきをついて、日本が対中国に「21か条の要求」を袁世凱政府につきつけ、山東省、満州、内モンゴルなどに日本の利権を認めさせました。
</p>
<p>
やむなく日本の要求を受け入れた袁世凱でしたが、盛んな抗日の声をうまく利用して、たくみに人気をとりながら、1916年皇帝の位に就くことを決めました。しかしこれには、内外の反発を買って退位、まもなく失意のうちに亡くなったのでした。
</p>
<p>
<br />
「8月20日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1241年　藤原定家死去&hellip;「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden21-6.html">藤原定家</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1839年　高杉晋作誕生&hellip;<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden31-3.html">吉田松蔭</a> の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden32-2.html">高杉晋作</a> が生まれました。
</p>
<p>
1926年　NHKの創立&hellip;1925年の春、東京、大阪、名古屋の放送局がラジオ放送をはじめていましたが、この3局がいっしょになって、日本放送協会(NHK)を創立させました。設立当時の聴取者は、わずか2万5000人でした。
</p>
<p>
1941年　詩集『智恵子抄』&hellip;彫刻家で詩人の <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden35-07.html">高村光太郎</a> は、精神病となり7年間病気とたたかって亡くなった妻智恵子を歌った詩集『智恵子抄』を刊行しました。智恵子は東京には空がないという/ほんとうの空が見たいという･･･ではじまる「あどけない話」や「レモン哀歌」など29編の詩や短歌は、今も多くの人たちに感動を与え、映画やテレビドラマにもよく登場します。詩の内容は、<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html">青空文庫</a> で読むことができます。
</p>
<p>
1988年　イラ・イラ戦争停戦&hellip;1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えるといわれています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_998.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_998.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 20 Aug 2010 08:22:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>帝政ローマの父・オクタビアヌス</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月19日は、こころざし半ばにして暗殺された養父シーザーの後をついで内乱を勝ちぬき、200年もの「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)をきずいた大帝国・帝政ローマの初代皇帝となったオクタビアヌス(アウグスッス)が、紀元14年に亡くなった日です。
</p>
<p>
古代ローマ共和国の英雄といわれる <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/caesar/index.html">シーザー</a> が、BC44年に反対派のブルータスらに暗殺されると、ローマの町はたちまち乱れてしまいました。この混乱を救ったのが、シーザーの姪の子でシーザーの養子だったオクタビアヌスと、シーザーの武将だったアントニウス、レピズスの第2回三頭政治でした。(ちなみに第1回三頭政治は、シーザー・ポンペイウス・クラッススによるもの) 3人はシーザーの軍隊と元老院を味方につけて、ローマの国土を分割しておさめました。
</p>
<p>
レピズスはまもなく勢力を失い、オクタビアヌスとアントニウスの二人が国土を治めるようになりましたが、オクタビアヌスの妹と結婚していたアントニウスの離婚がきっかけになって、対立するようになりました。そして東方の統治にあたっていたアントニウスがエジプトの <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden02-4.html">クレオパトラ</a> と結んでローマの分断をはかろうとするのを知ったオクタビアヌスは、元老院をときふせて兵をだし、アントニウス・クレオパトラ軍と戦いました。これがBC31年のアクティウム(ギリシア西岸)の海戦です。オクタビアヌスは大勝して、翌年アントニウスとクレオパトラは自殺して、エジプト王国は滅亡しました。
</p>
<p>
BC29年ローマに凱旋したオクタビアヌスは、元老院から「アウグスッス」という称号を得ました。アウグスッスとは「高貴な」とか「立派な」という意味の言葉なので、オクタビアヌスがいかに尊敬されていたかがわかります。長い間の戦争にあけくれていたローマ市民は、平和を喜び、連日お祭りや行列にあけくれたということです。
</p>
<p>
アウグスッスは、元老院を解散し、最高指揮官・統領・護民官などを兼ねた元首となりました。こうして200年ものあいだ、大領土をすみずみまでしっかり統治して空前の繁栄をもたらした「帝政ローマ」が誕生したのです。
</p>
<p>
<br />
「8月19日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1662年　パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録「パンセ」の著書で有名な物理学者・哲学者 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden06-05.html">パスカル</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1832年　ねずみ小僧の処刑…「ねずみ小僧次郎吉」といわれる大泥棒が、鈴が森刑場でさらし首の刑に処せられました。ねずみ小僧は15年間に、大名などの武家屋敷100か所から1万両もの大金を盗み、貧しい人たちに配ったという逸話が伝えられ、ねずみ小僧を主人公にした小説が、芥川龍之介、菊池寛、吉行淳之介らたくさんの作家に書かれています。
</p>
<p>
1929年　ツェッペリン号日本着陸…ドイツの飛行船「ツェッペリング伯号」が世界周航の途中、霞ヶ浦飛行場に到着。全長240mもの巨船に、日本中が大騒ぎになりました。飛行船の時代が来るかと思われましたが、可燃性や操縦の困難性を克服できず、次第にすたれていきました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_997.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_997.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 19 Aug 2010 08:10:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>モンゴル建国の父 チンギス・ハン</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月18日は、遊牧民がつくった「史上最大の帝国」といわれるモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハン(ハンは王の意)が、1227年亡くなったとされる日です。
</p>
<p>
12世紀のモンゴル高原は、大小さまざまな遊牧民が争いをくりかえしていました。チンギス・ハンの生年は、はっきりしていませんが、12世紀の半ばすぎ、外モンゴルのオノン川に近いモンゴル民族の名門氏族のテントの中でうぶ声をあげ、テムジンと名づけられました。
</p>
<p>
テムジンは、幼少のとき父親がタイチウト部族に毒殺されたため、貧苦のうちに成長、当時強勢を誇っていたケレイト部族に従ってしだいに勢力を蓄えたといわれています。そして1189年ごろ、モンゴル氏族連合の盟主に推されて、チンギス・ハンの称号を贈られました。
</p>
<p>
13世紀の初頭にこれらの抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一したのがチンギス・ハンです。それからのちのチンギス・ハンは、千戸制という軍事・行政制度をとりいれ、強力な軍隊を編成すると、華北(中国北部)の金へ侵入、中央アジアの西夏を滅ぼし、西アジアのホラズム朝などを次々に征服して広大な「モンゴル帝国」を築き上げました。
</p>
<p>
さらにチンギス・ハンの死後もその勢力をさらに拡大させ、次のハンとなったオゴタイは金を滅ぼし、カラコルムを首都にロシアを征服、ヨーロッパにまで進軍しました。オゴタイの死でヨーロッパの征服をまぬがれましたが、第4代ハンのモンケは、イランのアッバース朝、チベットなどを征服。第5代フビライは、1271年に首都を大都(北京)に移し、国号を「元」にして中国全土を支配し、朝鮮の高麗を属国にして、日本や東南アジアの支配までめざしましたが、これには失敗しました。
</p>
<p>
ユーラシアにおけるモンゴル帝国の支配は約100年でしたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、チンギス・ハンの名は、偉大な英雄として賞賛され、とくにモンゴルでは国家創建の英雄として称えられています。
</p>
<p>
なお、チンギスハンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第3巻 「<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/chingis/index.html">チンギス・ハン</a>」 をご覧ください。
</p>
<p>
<br />
「8月18日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1598年　豊臣秀吉死去&hellip;織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/hideyoshi/index.html">豊臣秀吉</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1850年　バルザック死去&hellip;「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの作家 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden09-2.html">バルザック</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1864年　伊藤左千夫誕生&hellip;歌人として 正岡子規 に師事、写生の短歌を継承して斎藤茂吉らを育て、小説『野菊の墓』を著した伊藤左千夫が生まれました。（<a href="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2009/08/post_825.html">2009.8.18ブログ </a>参照）
</p>
<p>
1909年　ワシントンの桜&hellip;東京市(東京都)が、ワシントンへ桜の苗木を2000本贈ることに決定しました。苗木はポトマック河畔に植えられて、いまや桜の名所として有名です。
</p>
<p>
1930年　細君譲渡騒動&hellip;作家の <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden35-11.html">谷崎潤一郎</a> と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。
</p>
<p>
1949年　フジヤマの飛び魚&hellip;ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。
</p>
<p>
1966年　中国文化大革命&hellip;中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_996.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_996.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 18 Aug 2010 09:23:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>インドネシア建国の父・スカルノ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日8月17日は、インドネシア独立運動の指導者スカルノが、1945年にオランダからの独立を宣言した日です。オランダはこの独立を認めず、その後4年間の戦争に突入しました。
</p>
<p>
インド洋と太平洋の間に、インドネシアがあります。スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスのほか、大小１万3000あまりの島が集まっている共和国です。しかし、1945年に第2次世界大戦が終わるまでは、オランダに支配された植民地でした。
</p>
<p>
1901年、その植民地時代にジャワ島のスラバヤで生まれたアハマッド・スカルノは、子どものころから、自分たちの独立国をもたない悲しさに心を痛めながら育ちました。そして1925年にバンドン工科大学を卒業すると、2年後にはインドネシア国民党をつくって、民族独立の戦いへ立ちあがりました。
</p>
<p>
ところが、たちまちオランダの役人ににらまれ、1929年に捕らえられたときは2年、1933年に捕らえられてからは9年もの間、牢や島に閉じ込められてしまいました。1939年に第２次世界大戦が始まったときも、捕らえられたままでした。
</p>
<p>
1942年、インドネシアを占領した日本軍の力で、スカルノは、やっと自由の身になりました。でも、こんどは、わがままな日本軍のいうことを聞きながら、戦争が終わるのを待たなければなりませんでした。
</p>
<p>
1945年８月に戦争が終わり、スカルノは、檻から出されたライオンのような勢いで、立ちあがりました。
</p>
<p>
「オランダも長い戦争でつかれている。いまだ」
</p>
<p>
このように叫んだと思うと、８月17日にはインドネシア独立を宣言し、新しい憲法を定めて大統領になったのです。
</p>
<p>
しかし、独立の声をあげてはみたものの、まだまだ平和はおとずれず、それからおよそ4年の間、もとの植民地にもどそうとするオランダと、戦わなければなりませんでした。
</p>
<p>
1949年にオランダは、ついにインドネシアの独立をみとめ、翌年インドネシア連邦共和国が誕生しました。ところが、スカルノ大統領には、これからさきが、さらに大変でした。
</p>
<p>
国土が数おおくの島に分かれているため、国民の心がひとつにまとまらず、各地で国民同志の争いが起こりました。民主主義の国をきずくため、国民の中からさまざまな代表を集めて話しあいの政治を進めていこうとしましたが、成功しませんでした。そのうえ、共産党の人たちとも手をむすんで政府をつくったことから、政府と軍人がにらみあうようになり、1967年、ついにスカルノ大統領は、陸軍司令官スハルト将軍に大統領の地位をゆずることになってしまいました。
</p>
<p>
スカルノは、1970年に69歳で亡くなりました。この建国の父の生涯には、心の休まるときはありませんでした。なお、タレントとして活躍中のデヴィ夫人(日本名・根本七保子)は、スカルノの第3夫人。
</p>
<p>
<br />
「8月17日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1807年　蒸気船の試運転&hellip;アメリカの技術者で発明家の <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden08-3.html">フルトン</a> が、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功した日です。
</p>
<p>
1949年　松川事件&hellip;東北本線の福島県松川市付近で、レールの釘がはずされていたため列車が転覆し、機関士ら3人が死亡する「松川事件」がおきました。この事件は、国鉄(JRの前身)の労働組合や共産党が仕組んだものとされ、労働組合員ら20人が逮捕されました。1963年に判決がおり、全員が無罪となりましたが、この事件をきっかけに政府の労働組合への取り締まりが強化され、日本の労働運動は急速に弱まっていきました。当時おきた下山事件、三鷹事件とともに「国鉄3大ミステリー」といわれています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_995.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/08/post_995.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 17 Aug 2010 08:40:59 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
