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      <title>児童英語・図書出版社　社長のこだわりブログ</title>
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      <description>30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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            <item>
         <title>佐々木政談</title>
         <description><![CDATA[<p>
「おもしろ古典落語」の69回目は、『佐々木政談(ささきせいだん)』というお笑いの一席をお楽しみください。
</p>
<p>
江戸時代の終わりころ、名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守(しなのかみ)という方がいらっしゃいました。非番のときはいつも、めだたないかっこうをして、三蔵というお供をつけて町のようすを見てまいります。すると、子どもたちが「お奉行ごっこ」をやってるところに出くわしました。
</p>
<p>
「両人のもの、頭をあげいっ。そのほうども、往来においてけんかをいたしたるよし、まことにふとどき千万。それがし南町奉行・佐々木信濃守、きびしく取り調べをいたす。けんかのいきさつ、有体にもうしてみよ」「お奉行さまに申し上げます。あたいのことを、みんな物知りだといいます。ここにいる勝ちゃんが、一(ひと)つから十(とお)までに『つ』はいくつあるかって聞きますから、『そんなこと知らない』といったんです。そうしたら、『そんなこともわからないで、物知りがるな』って、勝っちゃんは、あたいの頭をぶったんです。だからあたいもぶちかえして&hellip;」「そのようなつまらぬことで、上に手数をわずらすは、不届きしごくである。このたびは、さし許すが、以後は決して許さぬぞ、これ下役の者、両人の縄をといてつかわせ」
</p>
<p>
こうして両人は、ぶじ許されましたが、勝っちゃんという子が奉行役にたずねました。「お奉行さまは、一つから十までに『つ』はいくつあるかご存知でしょうか」「一つから十までに、『つ』は十そろっておる」「でも、十(とお)には、『つ』はありません」「だまれ、奉行のもうすことに間違いはない。十までの中に『つ』を盗んでる者がおる。ひとつ、ふたつ、みっつ&hellip;と数えてみるがよい、どうじゃ五(いつ)つは、『つ』を2つ持っておるであろう」「おそれいりましてございます」こうして、裁判が終わりますと、一人の子どもが「お奉行は、四郎ちゃんがいちばんうまいや、あしたからお奉行は四郎ちゃんに決めよう」「それがいい。また明日もここでお奉行ごっこをしよう」と、子どもたちは四方へ散って行きました。
</p>
<p>
このトンチに、いたく感心したほんものの信濃守は、「三蔵、ほかの者はともあれ、あの奉行になりし四郎という子ども、親ともども町役同道の上、奉行所に出頭いたすよう申しつけてまいれ」ということになりました。さて、子どもは、桶屋の綱五郎のせがれで十三歳になる四郎吉。奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いと、親父がしかっているところへ、三蔵がやってきて出頭を告げました。「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」と、親父はもちろん町役も真っ青になりながら、お白州にやってきました。
</p>
<p>
ところが、出てきたお奉行はいたって上機嫌。四郎吉に向かって「奉行のこれから尋ねること、何なりと答えることができるか、どうじゃ?」「そんなこと、わけないけど、こんな砂利の上では位負けがして何もいえなくなります。そこに並んで座るなら、どんなことでもしゃべります」 と、許されて遠慮なくずかずか上がってしまったので、親父は、気でも違ったかとブルブル震えているばかり。奉行、少しもかまわず、まず「星の数をいってみろ」と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、「それではお奉行さま、お白州の砂利の数をご存じですか?」「そんなもの、なんでわかる」「手に取って見られるものがわからないものを、どうして手のとどかない星の数がわかるのですか」と、これでまず一本。
</p>
<p>
父と母のいずれが好きかと聞かれると、出されたまんじゅうを二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返します。まんじゅうがが三宝に乗っているので、「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」と聞かれれば、すかさず「ここらの侍は一人でも与力といいます」。衝立に描かれた仙人の絵が何を話しているか聞いてこいといわれると、「佐々木信濃守は馬鹿だといってます」「だまれ、馬鹿で奉行がつとまるか」「そんなにおこったってしょうがありません。あたいがいったんじゃなくて、絵にかいた仙人がいったんです」「しからば、もう一度仙人に聞いてまいれ」「絵に描いてあるものがものをいうはずはない、それをわざわざ聞いてまいれ、という信濃守は馬鹿だと申しました」「こりゃりゃ、あっぱれじゃ&hellip;綱五郎、よいせがれを持ってしあわせであるのう。桶屋にしておくには惜しいものじゃ、十五歳になれば、信濃守が引取り近習(きんじゅ)に召し使ってとらせる」
</p>
<p>
親父は喜んだの喜ばないの、首がはねられるどころか、家柄のよい者でなければ出世のできなかったその頃に、桶屋のせがれが一足飛びに近習になれるというのですから&hellip;
</p>
<p>
もっとも桶屋のせがれだけに、タガがよく締まっていたのでしょう。
</p>
<p>
<br />
「5月18日にあった主なできごと」
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<p>
945年　紀貫之死去&hellip;平安時代の中期に活躍した歌人で、『土佐日記』を著わし、三十六歌仙の1人といわれた紀貫之が亡くなりました。
</p>
<p>
1265年　ダンテ誕生&hellip;イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家であるダンテが誕生した日といわれています。代表作は彼岸の国の旅を描いた壮大な長編叙事詩『神曲』、および9歳の時にであった初恋の美少女ベアトリーチェをモデルにした詩文集『新生』。イタリア文学最大の詩人、ルネサンスの先駆者とされています。
</p>
<p>
1869年　戊辰戦争終結&hellip;明治維新で江戸城無血開城後、旧幕府軍をひきいて箱館(函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷(えぞ)共和国を樹立した榎本武揚らが降伏し、戊辰(ぼしん)戦争が終結しました。
</p>
<p>
1872年　ラッセル誕生&hellip;イギリスの哲学者・論理学者･数学者で、原水爆禁止や平和運動に力をつくしたラッセルが生まれました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1391.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">おもしろ落語</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 18 May 2012 05:14:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>音楽界の異端児サティ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月17日は、ドビュッシーやラベルらに大きな影響を与えたフランスの作曲家サティが、1866年に生まれた日です。
</p>
<p>
エリック・サティは、パリ音楽院で学びましたが、生活が苦しいために中退すると、世紀末のパリの芸術家が集まるカフェー酒場「黒猫」でピアニストとして働きながら、コクトーやピカソらと交流し、当時としては革新的な曲を次々と発表しました。
</p>
<p>
中世的な神秘の世界をうかがわせるようなピアノの小品『ジムノペディ』『グノシエンヌ』や声楽曲を書き、今日よく知られている<a href="http://www.youtube.com/watch?v=eqqPvg-tD7Q">『ジュ・トゥ・ブ(おまえが欲しい)』</a>は特に有名です。この曲は、調性を無視して自由な和音を採り入れたこれまでになかったもので、最近、クラシックに関心のなかった人たちにも受け入れられ、ヒーリング音楽として人気となっています。
</p>
<p>
また、文学者ベランダが主宰した秘密結社「薔薇十字教団」と関係を持ち、公認作曲家となったサティは、ベランダの戯曲『星たちの息子』(1892年)の音楽を担当すると、その斬新な音楽は、ドビュッシーやラベルをはじめ、印象派の作曲家にも大きな影響を与えました。
</p>
<p>
サティはかなり変人だったようで、『犬のためのブヨブヨした前奏曲』『官僚的なソナチナ』『不愉快な概要』『干からびた胎児』『梨の形をした3つの小品』など、奇妙な曲名からもそれがうかがわれます。鋭い批判精神とユーモアあふれる人物だったのでしょう、自分あてに手紙を書いてポストに入れて楽しんでいたとか、恋人を窓から投げたといったエピソードがたくさん残されています。
</p>
<p>
1913年に作曲したナンセンスな音楽劇『メデューサの罠』は、ダダイズムの先駆的な作品として、今や高く評価されているのをはじめ、1917年に発表したバレエ『パラード』は、コクトーの台本、ピカソの舞台美術によるもので、タイプライター、汽笛、ピストルの音などの騒音をを交えたために、賛否両論のうずにまきこまれたといわれています。
</p>
<p>
サティは1925年に亡くなりますが、晩年は『家具の音楽』といったものを書きました。これは、主として酒場で演奏活動をしていたサティにとって、客の邪魔にならない演奏、すわりごこちのよい椅子のように人に安らぎやくつろぎを与える音楽というのは重要なテーマだったのでしょう。この考えは、現在の「癒し系音楽」のルーツのような存在でした。
</p>
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<br />
「5月17日にあった主なできごと」
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<p>
1510年　ボッティチェリ死去&hellip;「春」「ビーナスの誕生」などの名画で有名なルネサンス期の画家 ボッティチェリ が亡くなりました。
</p>
<p>
1749年　ジェンナー死去&hellip;種痘を発明し、天然痘という伝染病を根絶させたイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。
</p>
<p>
1890年　府県制の公布&hellip;現在の都道府県のもととなる府県制が公布され、地方自治のもとができあがりました。しかし当時は、府県の知事は政府によって決められていて、公選となったのは1947年に「地方自治法」ができてからです。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1390.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 17 May 2012 05:56:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>日本映画界の巨匠・溝口健二</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月16日は、黒沢明、小津安二郎と共に世界的に知られる日本映画の巨匠の一人にあげられる溝口健二（みぞぐち けんじ）が、1898年に生まれた日です。
</p>
<p>
東京・浅草の貧しい職人の家に生まれた溝口は、旧制小学校を卒業後、絵が好きだったことで浴衣の図案屋へ奉公、新聞社の広告図案係などさまざまな職を転々とするうち、日活の元俳優と親しくなり、1920年に日活向島撮影所に入社しました。
</p>
<p>
監督助手として、革新派の田中栄三監督らについて映画技術を2年間学んだのち、1923年『愛に甦る日』で映画監督デビューを果たすと、一年のうちに10作を制作、『敗残の唄は悲し』『霧の港』など話題作を連発したことで新進監督溝口への期待が高まりました。
</p>
<p>
関東大震災で向島撮影所が破壊されたため、同じ日活の京都撮影所に移った溝口は、『峠の唄』 『大地は微笑む』などの佳作を手がけました。ところが1925年、恋人であり同棲中の女性に背中をカミソリで斬られるという事件を起こし、しばらく謹慎処分となりました。不幸なことではありましたが、これがキッカケで女の性(さが)をテーマにした作品に独自の感覚を発揮するようになり、復帰するや、感性はさらに磨きがかけられ『紙人形 春の囁き』 『狂恋の女師匠』を発表、溝口の出世作となりました。
</p>
<p>
1933年、日活を辞めた入江たか子の「入江ぷろだくしょん」で仕事をするようになり、泉鏡花原作の情緒の世界を入江主演で描いた『瀧の白糸』が大ヒットしました。1934年には、永田雅一が設立した第一映画社に参加して制作した『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』は、日本映画のリアリズムを確立したと高く評価されています。
</p>
<p>
溝口が真価を発揮するのは太平洋戦争後で、1952年に井原西鶴『好色一代女』を基に田中絹代出演で撮った『西鶴一代女』を発表すると、国内での評判はいま一つでしたが、べネチア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者が絶賛し、サンマルコ銀獅子賞を受賞しました。さらに翌1953年、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した『雨月物語』は、同映画祭でサンマルコ銀獅子賞1位を獲得。1954年にも森鴎外『山椒大夫』でも同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成しとげ、いちやく「ミゾグチ」の名は国際的に認知されるようになったのでした。
</p>
<p>
1954年に、『近松物語』で芸術選奨とブルーリボン賞監督賞を受賞した後も 『揚貴妃』『新・平家物語』と優れた作品を生み出しましたが、1956年売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』が遺作となって、58歳で亡くなりました。
</p>
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<br />
「5月16日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1703年　ペロー死去&hellip;『がちょうおばさんの話』(「長靴をはいた猫」「眠れる森の美女」「小さな赤ずきん」「シンデレラ」など名高い民話を語り直した話を収録)を著わしたフランスの童話作家ペローが亡くなりました。
</p>
<p>
1975年　女性初のエベレスト登頂&hellip;日本女子エベレスト登山隊の田部井淳子が、世界で初となる女子世界最高峰登頂に成功しました。さらに田部井は、1992年に女子世界初の7大陸最高峰登頂をなしとげています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1389.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 16 May 2012 05:14:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女性解放運動と市川房江</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月15日は、大正・昭和前期に婦人運動家として「女性の参政権」を求める活動をし、戦後は「理想選挙」をめざす政治家として活躍した市川房江（いちかわ ふさえ）が、1893年に生まれた日です。
</p>
<p>
愛知県の農家に生まれた房江は、愛知県女子師範学校（現・愛知教育大）を卒業後、小学校教師、「名古屋新聞」（現・中日新聞）記者をへて上京、1919年に平塚雷鳥らと日本初の婦人団体「新婦人協会」を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第5条の改正を求める運動を展開しました。
</p>
<p>
しかし、平塚との意見の対立があり、1921年には協会を離れて渡米。帰国後の1924年、各種婦人団体が合同して組織した「婦人参政権獲得期成同盟会」を、市川がその中心となって結成、翌25年にはこれを「婦選獲得同盟」と名を改めて、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けました。ところが、衆議院議員選挙法の改正で男子の普通選挙は成立したものの、女性の参政権は得られませんでした。あきらめきれない市川は、1930年に「第1回婦選大会」を開いて運動を続けたことで、同年に婦人参政権の法案が衆議院で可決されましたが、貴族院の反対で実現には至りませんでした。1940年には戦争進行のため婦選獲得同盟は解散させられ、大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組みこまれていきました。
</p>
<p>
太平洋戦争敗戦後の1945年8月下旬には早くも「戦後対策婦人委員会」を組織し、政府や各政党に婦人参政権を要求。同年11月には戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」(50年「日本婦人有権者同盟」に改称)を結成して会長に就任、12月17日に衆議院議員選挙法改正で婦人参政権（男女普通選挙）を実現させました。翌1946年の第22回衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生したことは特筆されます。その後は、一貫して女性の政治的自覚や地位の向上をめざし、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組みました。
</p>
<p>
1953年の第3回参議院議員選挙に、市川は東京地方区から立候補して当選をはたすと、5期25年も参議院議員を務めました。組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えなかっったため「理想選挙」とまでいわれました。政治資金規制問題に取り組んだことでもよく知られています。
</p>
<p>
1980年の第12回参議院議員通常選挙では、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たすものの、1981年に心筋梗塞のため議員在職のまま、生涯を閉じたのでした。
</p>
<p>
<br />
「5月15日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1932年　5・15事件&hellip;海軍の若い将校や右翼の若者たちが、政党や財閥をたおし、軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相官邸や警視庁などを襲撃、犬養毅 首相を射殺する事件が起こりました。この惨劇により、14年間続いた政党内閣は断絶し、わが国はファッシズムへの道をまっしぐらに進むことになります。
</p>
<p>
1972年　沖縄本土復帰&hellip;第2次世界大戦後アメリカに占領されていた沖縄が、26年ぶりに返還され、沖縄県として日本に復帰しました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1388.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 15 May 2012 05:32:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「水銀温度計」 とファーレンハイト</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月14日は、主にオランダで活動した技術者・物理学者で、水銀温度計を発明し、「華氏温度」にその名を残すファーレンハイトが、1686年に生れた日です。
</p>
<p>
ポーランドのダンチヒ(現・グダニスク)に生れたガブリエル・ダニエル・ファーレンハイトは、1701年に両親が亡くなったのを機に、商業知識を身につけようとオランダのアムステルダムへ渡り、気象機械など科学装置を製造する仕事に就きました。
</p>
<p>
より良いものを求めてヨーロッパ各国を回って科学者と会ううち、それまで一般的に使われていたアルコールを使った液柱温度計が不正確で、標準温度計の必要性を感じ取りました。1713年ころからアルコールのかわりに水銀を使って実験を重ねて精度を高め、水と氷のまじりあう温度(氷点)と、健康な男性の体温を固定化させた「水銀温度計」を発明することに成功しました。さらにこれを改良し、水の沸点、沸点より高い温度、氷点より低い温度が測れる温度計として、1717年にアムステルダムで商業的な生産・販売を行いました。
</p>
<p>
その後、水の氷点を32度、沸点を212度とする「華氏温度目盛」を定め、1724年にイギリス王立協会で発表したことで、まもなくイギリスとオランダで採用され、現在もアメリカ・カナダ・オーストラリアなどで一般的に使用されています。「華氏」というのは、ファーレンハイトの中国語音訳「華倫海特」からきています。
</p>
<p>
日本で一般的に使用している「摂氏」(セルシウス)は氷点が0度、沸点が100度で、F(華氏)＝9/5&times;C(摂氏)＋32 の変換式により「華氏」温度が定められています。
</p>
<p>
ファーレンハイトは、自身の温度計を使ってさまざまな液体の沸点を計測するうち、その沸点が液体ごとに異なることや、大気圧によって変動することを発見し、1736年に亡くなりました。
</p>
<p>
なお、「5月14日」は世界的に「温度計の日」とされ、ファーレンハイトの誕生日(グレゴリオ暦では5月24日)であることから制定されたものです。
</p>
<p>
<br />
「5月14日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1221年　承久(じょうきゅう)の乱&hellip;後鳥羽上皇はこの日、京都近隣の武士1万7千人を集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。
</p>
<p>
1796年　ジェンナーの種痘&hellip;イギリスの外科医 ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。
</p>
<p>
1839年　蛮社の獄&hellip;この日、江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士渡辺崋山、高野長英らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会（しょうしかい）を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。崋山や長英らは、浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを非難、これへの反感からの逮捕でした。
</p>
<p>
1878年　大久保利通死去&hellip;明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた最大の指導者大久保利通が暗殺されました。
</p>
<p>
1948年　イスラエル建国&hellip;イスラエルの地（パレスチナ）に故郷を再建しようという、ヨーロッパを中心におこった「シオニズム運動」の結果、紀元前のイスラエル王国にちなんだユダヤ人の国家イスラエルを、この日に建国しました。これに怒ったレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5か国は戦争を宣言、9か月にわたるパレチスナ戦争(第1次)がはじまりました。この戦争で、パレスチナを追われた100万人ものアラブ人は難民となり、いまだに「アラブ─イスラエル」対立の構図はなくなりません。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1387.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 14 May 2012 05:18:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「応仁の乱」 と細川勝元</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月11日は、室町時代の武将・守護大名で、応仁の乱の東軍総大将として知られている細川勝元（ほそかわ かつもと）が、1473年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1430年、細川持之の長男として生まれた勝元は、父の死により13歳で家督を継承しました。16歳で室町幕府の将軍(わずか11歳の第8代将軍義政)を補佐する最高職の「管領」(斯波・細川・畠山家が交代で務める)に就任すると、以後1452〜64年、1468年〜73年と通算23年間も管領職を歴任し、幕政に大きな影響力を及ぼし続けました。
</p>
<p>
当時、幕府の実力者の一人だった畠山家に対抗するため、勝元はもう一人の実力者山名宗全の娘を正室にむかえました。ところが、勘合貿易の問題から、細川と山名の対立が生じ始めると、まだ子のいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしました。ところが1466年に実子が誕生すると、豊久を仏門に入れてしまったため、両者の関係が悪化しはじめました。
</p>
<p>
1467年、畠山家に、持国の養子と実子との跡目争いをめぐる内紛がおきると、勝元は養子を推したのに対し、宗全は実子を推したことで両者の対立はいっそう悪化。さらに、足利将軍の後継者問題では、勝元が将軍義政の弟義視(よしみ)を推したのに対し、宗全は義政と正室日野富子との間に誕生した義尚(よしひさ)を推しました。義政に取り入り、畠山家の管領職を取り上げて、宗全の推す斯波家を管領に任命させたことがなどが重なり、同年5月、全国の守護大名を二手に分けた内戦「応仁の乱」が勃発しました。東軍の総大将は勝元、西軍の総大将は宗全でした。
</p>
<p>
勝元は、将軍義政から宗全追討令を受領したものの、戦況はしばらく互角、やがて東軍有利に進むものの勝負はつきません。1468年になると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に逆転するなど、敵味方が入り混じった戦となったため、1472年には勝元は、和平交渉を試みましたが決裂、1473年3月に宗全が死去すると、その2か月後に勝元も病死してしまいました。応仁の乱は、結局1477年まで続き、この戦乱の影響で足利幕府の衰退が加速化し、守護大名に代わる戦国大名たちが入り乱れる「戦国時代」に突入することになります。
</p>
<p>
なお、勝元は幅広い趣味の持ち主で、和歌に親しみ、絵を描き、禅宗を深く信仰し、石庭で有名な京都の龍安寺を建てたことでも知られています。
</p>
<p>
<br />
「5月11日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1891年　大津事件&hellip;日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院（現在の最高裁判所）は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。
</p>
<p>
1970年　日本人エベレスト初登頂&hellip;松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1386.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 11 May 2012 05:39:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「初アフリカ横断」 のスタンリー</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月10日は、アフリカで遭難したリビングストンを発見したことや、初めてアフリカを横断したことで有名なジャーナリスト・探検家のスタンリーが、1904年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1841年、イギリス・ウェールズ北部のデンビーに私生児として生まれたスタンリー(幼名ジョン・オーランズ)は、2歳の時に父を亡くし、母は育児を放棄したため5歳まで祖父の元ですごしたのち、10年近くも孤児院で暮しました。しかし、あまりに乱暴な監督に反抗して脱走、新しい天地を求めてアメリカにわたり、ニューオーリンズでヘンリー・スタンリーという商人の養子となり、その名をもらい受けました。
</p>
<p>
その後、南北戦争では南軍に参加して戦いましたが、戦後はいくつかの新聞や通信社の契約記者となって、国内からヨーロッパやアフリカをまわって、政府軍とインディアンとの戦い、イギリスとエチオピアとの戦いなど、次々とヒット記事を書いて有名になりました。
</p>
<p>
1867年ころ、ナイル川の水源探検にむかって消息を絶ったイギリスの宣教師で探検家のリビングストンが話題になっていました。『ニューヨーク・ヘラルド』社主からリビングスト探索を要請されたスタンリーは、大変な苦労のすえ、1871年タンザニア西端にあるタンガニーカ湖畔でリビングストンを発見し、感動的な対面をはたしました。翌年、「ニューヨーク・ヘラルド」と「デイリー・テレグラフ」に、手記『リビングストン発見の旅』を公表すると、世界じゅうに報道されて最大級の称賛を受けたのでした。
</p>
<p>
1874年、「ヘラルド」と「テレグラフ」両新聞に要請されてスタンリーは、インド洋岸から、アフリカ大陸中央部のビクトリア湖、アルバート湖を経て、1877年に大西洋岸コンゴ川河口に到着し、アフリカ横断に成功しました。1000日もかけたこの冒険記録は、『暗黒大陸横断記』に著し、再び絶賛されました。その後スタンリーは、ベルギー王の依頼を受けてコンゴ地域へ行って「コンゴ自由国」を建設したり、探検によるさまざまな発見をしています。
</p>
<p>
当時欧米人たちは、アフリカ大陸の海岸地方しか知られていませんでした。スタンリーの探検記録をきっかけに、アフリカ奥地まで開拓され、やがてヨーロッパ諸国による植民地の奪い合いとなっていったのは皮肉なことでした。
</p>
<p>
<br />
「5月10日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1863年　下関事件&hellip;長州藩は下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃しました。これが下関事件です。これは、孝明天皇の命により14代将軍徳川家茂が5月10日を攘夷期限と奏上したことに呼応したもので、他に実行する藩がありませんでした。長州藩はフランス艦、オランダ艦にも発砲、6月1日には米･仏艦が報復攻撃に来航するなど、長州藩は苦境に立つことになりました。
</p>
<p>
1871年　円誕生&hellip;近代日本貨幣法として「新貨条例」が制定され、「円」が誕生しました。円の100分の1を「銭」、現在はほとんど使われませんが、銭の100分の1を「厘(りん)」とすることも決められました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1385.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 10 May 2012 05:23:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>こんにゃく問答</title>
         <description><![CDATA[<p>
「おもしろ古典落語」の68回目は、『こんにゃく問答(もんどう)』というお笑いの一席をお楽しみください。
</p>
<p>
上州(今の群馬県)の安中にあるこんにゃく屋の六兵衛さんは、若いころ江戸で親分とか、兄ぃといわれた人でした。昔の縁で、江戸からやってきた者が顔を出します。もともと世話好きですから、ひと月でもふた月でも置いてやるので、居候がごろごろしています。
</p>
<p>
「おい、八公、ちょいと来い。おめぇに話があるんだ、そこへ座れ」「へぇ」「ほかでもねぇ、おめぇ家へ来てから、かれこれふた月だなぁ」「早いもんですねぇ、もうそんなになりますか?」「そこでだ、いてもかまわねぇが、仕事をしろ。坊主にならねぇか」「えっ、坊主?」「村はずれに、寺があるだろう&hellip;薬王寺っていう寺なんだが、住職が死んで、寺男の権助が一人いるだけなんだ。村の長(おさ)から、住職になる人を探してくれって頼まれてるんだ」「ようござんすが、あっしは経なんぞ、できませんが」「経なんざ、いろはにほへと&hellip;ってのを知ってるだろ、節をつけて、長ったらしくいえばいいんだ」
</p>
<p>
八五郎もどうせ行く当てのない身、薬王寺の和尚になりすましました。2、3日はおとなしくしていましたが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、権助と二人でくだを巻いています。「葬式でもねぇ日にゃあ、坊主の干物ができちまう。どこかに、死にそうなやつはねぇのかい」「そりゃ、病人がないわけじゃありませんが」とやってるところへ、玄関で「頼もう&hellip;」と声がします。権助が出てみると、あじろ笠を手にした坊さん。越前永平寺の僧で托善(たくぜん)と名乗り、諸国行脚の途中に立ち寄ったが、看板に「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」とあるので禅寺と見受けた、ぜひご住職に一問答お願いしたいといいます。
</p>
<p>
八五郎にはなんだかわけがわかりませんが、権助がいうには、「なになには、いかに?」と向こうから聞いてくるので、こっちで「なになにのごとし」と答えるのが問答。この問答に負けると如意棒でぶったたかれた上、寺から追い出されるとのこと。住職は留守だと追っ払おうとしましたが、しからば命のある限り、毎日やってくるといいます。大変な坊主に見こまれたものだと、八五郎が逃げ支度をしているところへ、やって来たのがこんにゃく屋の六兵衛。事情を聞いて、オレが退治してやろうと身代わりを買ってでます。「問答を仕掛けてきたら黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないといえ。それでも承知しやがらなかったら権助、大釜へ湯をわかしといて、野郎の頭からぶっかけろ、それを合図に卒塔婆かなんかで、むこうずねをかっぱらえ」「うふっ、こいつはおもしれぇや、けんかとくりゃ、こちとら慣れてるからね、死んじまっても裏にゃ、墓場もあるし&hellip;」
</p>
<p>
さて翌日。住職になりすました六兵衛と托善の対決がはじまります。「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の支骨を保つ。大和尚、この義はいかに&hellip;」六兵衛もとより何にもいいません。托善は、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧もと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。三本の指を出すとアッカンべー。托善、「恐れ入りました!」と逃げだしました。
</p>
<p>
八五郎が追いかけてわけを聞くと「当山の大和尚は博学多知識、なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と手で○を作ると『大海のごとし』と両手で大きな○のお答え。『十方世界は』と十本の指を出すと、『五戒で保つ』と片手で五本の指を出された。『三尊の弥陀は』と三本の指を出すと、『目の下にあり』。いやー恐れ入りました。両三年修行をなしてまいります」
</p>
<p>
六兵衛いわく「あの野郎はちゃんとした坊主じゃねぇ、ここいらをうろついてる乞食坊主に違いねぇ。馬鹿にしやがって、オレがこんにゃく屋だってぇことを知ってやがった。指で、てめえんとこのこんにゃくは、これっぱかりだってやがるから、こぉーんなに大きいといってやった。十丁でいくらだと値を聞いてきやがったから、五百文だっていってやったら、三百に負けろってぇから、
</p>
<p>
&hellip;&hellip;アッカンベーをしてやった」
</p>
<p>
<br />
「5月9日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1903年　ゴーガン死去&hellip;ゴッホやセザンヌと並び、後期印象派の代表的な画家として評価の高いフランスの画家ゴーガンが亡くなりました。
</p>
<p>
1994年　南アに初黒人大統領&hellip;アパルトヘイト(人種隔離)政策が長くすすめられてきた南アフリカ共和国に、国民全体が参加した選挙で、人種差別とたたかってきた黒人解放運動の闘士マンデラが大統領に選出されました。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1402.html</link>
         <guid>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1402.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">おもしろ落語</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 09 May 2012 05:07:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>激しい運命をたどった淀君</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月8日は、豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼を産み、秀吉亡きあと秀頼の後見人として豊臣家一族を盛りたてた淀君(よどぎみ)が、家康のはかりごとに屈し、1615年の「大坂夏の陣」に敗れて自害した日です。
</p>
<p>
1567年、近江国（現・滋賀県）の戦国武将・浅井長政と母織田信長の妹・市の長女として、小谷城に生まれた淀君(江戸時代に入ってからの呼び名で、それまでは茶々・淀殿などと呼ばれていた)でしたが、1573年に、父長政は 織田信長 に敵対して攻めこまれ、小谷城は落城してしまいます。その際、母と二人の妹ととも信長に救出されましたが、父と祖父は自害、兄は捕らえられて信長の命で処刑されました。
</p>
<p>
1582年、信長が「本能寺の変」で明智光秀の謀反で亡くなった後、母・市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚したため、茶々は母や妹たちとともに越前国北の庄城（現・福井市）に移りました。しかし翌1583年、秀吉 と勝家が対立し、「賤ヶ岳の戦い」に勝家が敗れると、市は勝家とともに自害しましたが、茶々と妹二人は再び救われ、秀吉の保護を受けました。
</p>
<p>
その後 豊臣秀吉 の寵愛を受けた茶々は、秀吉の側室となって1589年、鶴松を生むと側室の中でも最も強い権力を持つようになり、秀吉が小田原城を包囲して後北条一族を降した「小田原の役」には茶々を従わせたばかりか、淀城を贈ったことで、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになりました。鶴松はわずか3歳で亡くなりましたが、1593年に秀頼を生むと、秀吉世継ぎの生母としてますます権勢を誇るようになり、秀吉の死後は秀頼の後見人として大坂城西の丸に入り、豊臣氏の家政の実権を握るに至りました。
</p>
<p>
1600年、石田三成が 徳川家康 に対して挙兵した「関ヶ原の戦い」には表だった関与はしなかったものの、豊臣家の直轄領が大幅に削減されたことで家康と対立し、1614年の「大坂冬の陣」、1615年の「大坂夏の陣」で徳川勢に完敗し、大坂城は落城、秀頼らと共に自害したといわれています。こうして豊臣家は、わずか2代で終わりをつげたのでした。
</p>
<p>
なお、淀君と二人の妹は「浅井の3姉妹」として有名で、次女の「初」は近江国大津藩主・京極高次の正室、三女「江(ごう)」は徳川第2代将軍秀忠正室・3代家光の母となったことはよく知られており、そんな姉妹の激動の人生は、文学、映画、演劇などの格好な素材だからなのでしょう。高い視聴率が期待できるせいか、特にテレビドラマに登場するのをよく見かけます。
</p>
<p>
<br />
「5月8日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1794年　ラボアジェ死去&hellip;従来の化学理論を次々と正し、実験で証明し「近代化学の父」と称されたフランスの科学者ラボアジェが、ある時期に徴税請負人をしていたことでわかり、ギロチンで処刑されました。
</p>
<p>
1859年　デュナン誕生&hellip;負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家デュナンが生れました。この誕生日を記念して、5月8日は「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1383.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 08 May 2012 05:15:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>人気の大作曲家チャイコフスキー</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月7日は、バレー組曲『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』、交響曲『悲愴』、弦楽四重奏曲『アンダンテカンタービレ』などを作曲したロシアの作曲家チャイコフスキーが、1840年に生まれた日です。
</p>
<p>
『白鳥の湖』という、有名なバレエがあります。悪魔に魔法で白鳥にかえられてしまった姫と、その姫に愛をちかった王子との、美しい恋の物語です。この『白鳥の湖』を作曲したのがピョートル・イリイチ・チャイコフスキーです。
</p>
<p>
ロシアのボトキンスクという町で、鉱山の技師の子に生まれました。父も母も音楽を愛する家庭に育ったチャイコフスキーは、幼いころから、名曲を聞き、ピアノを弾くのが大好きでした。でも、小学校を卒業すると、上流家庭のしきたりにしたがって法律学校へ進みました。
</p>
<p>
19歳で役人になりました。しかし、役人のきまりきった生活がいやになり、わずか3年で役所をやめると、ペテルブルク音楽院へ入って作曲の勉強を始めました。母や、親戚の人たちは反対しましたが、父だけは、自分の道を自分で選ぼうとするわが子を許しました。
</p>
<p>
チャイコフスキーは、課題で10曲ほど作曲してくるようにいわれると、200曲も作って教師を驚かすほど勉強をしました。そして、音楽院をすばらしい成績で卒業すると、つぎの年に、モスクワ音楽学校の教師にむかえられました。生まれつき内気で孤独な性格だったチャイコフスキーは、ひとりで小さな家に住んで、交響曲、弦楽４重奏などを次つぎに作りました。『白鳥の湖』を作曲したのは36歳のときです。
</p>
<p>
37歳で、音楽院の教え子と結婚しました。ところが、性格が合わず、わずか2か月で別れてしまいました。心に深い傷をおったチャイコフスキーは、一時は、自殺を考えたほどでした。やがて学校をやめ、音楽に全てを捧げようと、ある金持ちの援助を受けて作曲ひとすじに情熱をそそぐようになり、名曲『イタリア奇想曲』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』などを生みだしていきました。また、作曲だけではなく、世界各地へ演奏旅行に出かけて、自分で指揮棒をふり、身も心も、音楽にひたりました。
</p>
<p>
最後の曲になったのは、人間の深い悲しみを表現した第6交響曲『悲愴』です。1893年、この曲が初めて演奏されてわずか9日後に、コレラにかかって53歳の生涯を閉じてしまいました。まるで『悲愴』を自分のために作ったような、死にかたでした。
</p>
<p>
なお、チャイコフスキーの人気のある作品に<a href="http://www.youtube.com/watch?v=OwWOLlDEyz4">『ピアノ協奏曲(第1番)』</a>と<a href="http://www.youtube.com/watch?v=GAkw_Wi4yIo&feature=related">『バイオリン協奏曲』</a>があります。クラシックの好きな人たちは、「3大ピアノ協奏曲」にグリーク・ベートーベン・チャイコフスキー、「4大バイオリン協奏曲」にメンデルスゾーン・ブラームス・ベートーベン・チャイコフスキーをあげる人が多いようで、私もその一人です。
</p>
<p>
<br />
「5月7日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1730年　本居宣長誕生&hellip;35年かけて完成させた『古事記伝』など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者・本居宣長が生れました。
</p>
<p>
1824年　第九の初演&hellip; ベートーベン の交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1382.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 07 May 2012 05:28:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女性解放の闘士・景山英子</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月2日は、女性解放運動のさきがけとなった社会運動家の景山英子(かげやま ひでこ)が、1927年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1865年、岡山藩の下級武士の娘として生まれた英子は、下級武士の例にもれず生活の糧として内職に寺子屋を開く父と、寺子屋の教師をつとめる母という教育熱心な家庭に育ちました。英子が4歳の時、明治維新の大変革がおこり、武士階級の解体により、父は巡査になるいっぽう、母は岡山県が開設した女学校の教師となりました。
</p>
<p>
15歳で小学校を卒業した英子は、母や兄の開いていた私塾を手伝っていた1882年5月のある日、18歳の英子にとって終生忘れることのできない感銘深い日が訪れました。岡山で開催された演説会に岸田俊子が、自由民権運動の弁士のなかの一人として英子の前に現れたのです。俊子の演説に触発された英子は、女性解放の大切さをさとり、翌1883年には母とともに、女性が学べるように夜間部のある私塾「蒸紅学舎」を設立しました。いっぽう、演説会を開いて「人間平等論」を力説して、女闘志と呼ばれたりしました。ところが、討論をさかんに取り入れた自由な教育法は、警察に警戒されるようになり、集会条例に違反したとしてわずか1年で、学舎は閉鎖させられてしまいました。
</p>
<p>
同年秋、上京して、自由民権運動家の大井憲太郎らに接近して運動を進めるうち、翌1885年「大阪事件」という朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づいた事件に連座して投獄されてしまいました。まだわずか20歳だったため、「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて名をはせました。
</p>
<p>
1889年に出獄した英子は、大井と内縁関係となり、関西各地を遊説、1子をもうけましたが大井の裏切りにより離別。1892年、アメリカ帰りの自由主義者で「万朝報」記者だった福田友作と結婚し、3児を生みましたが1900年に友作と死別してしまいました。英子が「福田英子」ともいわれるのはこのためです。
</p>
<p>
1901年に女子工芸学校を設立して、自らと女性の経済的自立をめざした英子でしたが、学校の経営には失敗してしまいます。このころ堺利彦や幸徳秋水らと出会い、社会主義に近づいて「平民社」創立に参加しました。1907年には石川三四郎、安部磯雄らの協力で日本で初めての社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊し、主筆となって言論活動を展開しました。弾圧と生活に苦しみながらも2年半維持し、その間、女性の結社権を禁じた治安警察法5条改正を議会に請願する運動をおこしたり、田中正造を後援して足尾鉱毒事件の犠牲者となった谷中村民救済支援を続けました。
</p>
<p>
晩年の英子は生活苦と戦いながら子育てにはげみましたが、昔の同志が偉くなっていくのを見て、「男は駄目ね、位階や勲章に目がくらむから」と語ったといわれています。なお、1904年に自伝『妾(わらわ)の半生涯』を著わし、今もたくさんの人たちに読まれ続けています。同書は、オンライン図書館「<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000057/files/43276_18829.html">青空文庫</a>」で読むことができます。
</p>
<p>
<br />
「5月2日にあった主なできごと」
</p>
<p>
756年　聖武天皇死去&hellip;仏教を深く信仰し、全国に国分寺を建て、奈良の大仏を造った聖武天皇が亡くなりました。
</p>
<p>
1519年　レオナルド・ダ・ビンチ死去&hellip;『モナリザ』『最後の晩餐』など絵画の名作を描いたイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ビンチが亡くなりました。
</p>
<p>
1948年　サマー・タイムの実施&hellip;欧米の政策を採り入れて、時計を1時間早めて生活するサマー・タイムが実施されました。しかし、日本の生活習慣に合わなかったため、4年後に廃止されました。最近になって、エネルギーの節約と時間の有効活用のために、導入すべきだという声もきかれるようになっています。
</p>
]]></description>
         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/05/post_1398.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 02 May 2012 05:45:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>写生画の大家・円山応挙</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日5月1日は、江戸時代中期の絵師で、写生を重視した親しみやすい日本画「円山派」を興した円山応挙(まるやま おうきょ)が、1733年に生まれた日です。
</p>
<p>
あるとき応挙は、山かげに眠っているイノシシをかきました。ところが、絵を人に見せると「背中のいかり毛が立っていない。このイノシシは病気で死にかかっていたのだ」といわれました。そこで応挙は、こんどはほんとうに眠っているイノシシをさがしだして、写生をしなおしました。──これは応挙が、実物そのままの絵をかくために、いかに写生を大切にしたかを伝える話です。
</p>
<p>
丹波国（京都）の農家に生まれた円山応挙は、少年時代に農業をはなれて寺にあずけられたことがありました。しかし、絵が好きだった応挙は、15歳になったころ京都にでて呉服屋などで働きながら、狩野派の石田幽汀の弟子になって絵を学び始めました。
</p>
<p>
応挙を、初めに有名にしたのは、オランダ・中国から渡ってきて日本人を驚かせていた眼鏡絵です。それは、箱にレンズと反射鏡をつけて、そこから箱の中をのぞくと、箱の奥の絵が浮き出して見えるというものでした。応挙は生活に困って、この絵をかいているうちに、遠くのものはほんとうに遠くに見えるようにえがく遠近法や、ものをありのままに描くための写生法を身につけ、眼鏡絵の画家として名を高めたのです。
</p>
<p>
30歳をすぎた応挙は、眼鏡絵でおぼえた技術を取り入れて、山、木、花、鳥などの日本画を多く描くようになりました。そして、40歳までの10年近くは、絵の才能を認められて近江国（滋賀県）園城寺の円満院宮にめしかかえられ、東洋の古い絵を写して学びながら、さらに腕をみがきました。
</p>
<p>
応挙が、のちの世に残る、ほんとうにすばらしい絵をかくようになったのは、40歳をすぎてからのことです。とくに、屏風(びょうぶ)絵や、襖(ふすま)絵に力をそそぎ『孔雀図屏風』『遊虎遊鶴図襖絵』『雪松図屏風』(下の絵)などで、天下一の画家とたたえられるようになりました。応挙の名をしたって集まった弟子たちは、多いときは100人を越したといわれています。
</p>
<img alt="Okyo_Pine_Trees.jpg" src="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/img/Okyo_Pine_Trees.jpg" width="280" height="289" />

<p>
しかし、年をとってからの応挙は目が不自由になり『保津川図屏風』を最後に、江戸時代の中ごろに花を咲かせた62歳の生涯を終えました。画家としては、華やかでしたが、自分の生活では、着るものも、食べるものも、住むところも、まったく気にしませんでした。ただ絵をかくことだけに、情熱をそそぎつくしたといわれています。
</p>
<p>
<br />
「5月1日はこんな日」
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メーデー&hellip;世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭りの日」のメーデーです。
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「5月1日にあった主なできごと」
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1873年　リビングストン死去&hellip;文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが亡くなりました。
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1904年　ドボルザーク死去&hellip;「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが亡くなりました。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 01 May 2012 05:18:26 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>「ナイロン」 のカロザーズ</title>
         <description><![CDATA[<p>
今日4月27日は、世界で初めて高分子から成る化学繊維(ナイロン)を発明したアメリカの有機化学者カロザーズが、1896年に生まれた日です。
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アイオア州のバーリントンという町で生まれたウォレス・ヒューム・カロザーズは、商業学校の先生が父でしたが、子ども4人をかかえた一家の暮らしは、あまり豊かではありませんでした。そこで、長男だったカロザーズは、高等学校を卒業すると、早く社会へでて家を助けるため、商科大学の速修科へ進みました。
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しかし、子どものころから好きだった理科を忘れられず、やがて、ターキオ大学へ入りなおして、働きながら化学を学びました。さらにイリノイ大学でも学び、触媒の研究により、28歳で理学博士の資格を得てハーバード大学の講師になりました。
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その数年ののち、アメリカ一の化学工業会社デュポン社の研究室で、ゴムや繊維の研究にとりくむようになりました。カロザーズがすぐれた化学者であることを知っていた教授から、資金のある大きな会社で、思う存分に研究してみるようにすすめられたのがきっかけでした。
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物を形づくっている原子や分子のつながりを研究すれば、炭化水素のアセチレンから、強い人造ゴムができると考えたカロザーズは、まずゴムの研究にとりかかり、会社に入って1年ののちには、早くも、天然ゴムよりも丈夫な、高い熱にもとけない「ネオプレンゴム」を作るのに成功しました。
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つぎには、やはり化学の力で、薬品から生糸よりも細い糸を作る研究にとりくみました。なんども実験に失敗して、研究を中止してしまわなければならないこともありました。しかし、自信をもっていたカロザーズはくじけずに研究をつづけ、1935年、ついに、ナイロンを発明したのです。
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「石炭と水と空気から、新しい化学繊維が生まれる」というカロザーズの研究が発表されると、世界の人びとは、化学の不思議さに驚きました。そして、世界に名が知られる発明家になった化学者のカロザーズは、学者として最高のアメリカ学士院会員におされ、外国からも招かれるようになりました。
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しかし、それから2年のちの1937年、湖にボートでこぎだしたカロザーズは、そのまま帰らぬ人となってしまいました。文学や音楽も愛し、神経がこまやかだったカロザーズは、純粋な研究と会社のための研究のあいだに入って、苦しんだのかもしれません。
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ナイロンは、カロザーズが亡くなった翌年から作られるようになり、繊維の世界に大きな灯をともしました。
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「4月27日にあった主なできごと」
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BC399年　ソクラテス死去&hellip;古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、若者たちをまどわした罪で死刑の判決を受け、逃亡をうながす友人に『どんな「悪法」でも国の法律でさばかれた以上それにそむくことはできない』と語り、いさぎよく毒を飲んで亡くなった日です。
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1917年　世界初の駅伝競走&hellip;東京遷都50年を記念して、京都から東京までタスキをつないで走る「駅伝」が世界で初めて行われ、この日から3日間、昼夜休まず続けられました。
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1989年　松下幸之助死去&hellip;パナソニック(旧松下電器産業）を一代で築き上げ「経営の神様」といわれた松下幸之助が亡くなりました。
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         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/04/post_1379.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">今日はこんな日</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 27 Apr 2012 05:21:59 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>そこつの釘</title>
         <description><![CDATA[<p>
「おもしろ古典落語」の67回目は、『そこつの釘(くぎ)』というお笑いの一席をお楽しみください。
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「ちょいとおまえさん、今ごろまで何をしてたんだい?」「どこったって、こんな重いもんしょって、どこへいくもんか、ここへこようと思ったんだ」「朝早いうちに家を出て、もうじき夕方じゃないか。この引越しの荷物、長屋のみなさんが、みんなで手伝ってくださったんだよ」「おいおい、おれだって好きでこうなったわけじゃねぇ。これにゃ、深いわけがあるんだ」「どんなわけだい?」
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「つまりだ、人力車と自転車が突きあたったんだ」「あぶないね、けがしやしなかったかい」「おれじゃねぇ、はずみってぇのはおそろしいもんだ」「そんな人さまのこと、大きなお世話じゃないか」「それが、悪いことにカステラ屋の前でな、こね鉢に入った200個もある卵が流れ出したんだ。カステラ屋が怒ってな、自転車と人力車とカステラ屋の3人のけんかになった。すると、そこへおまわりが来て、なにしろ交番へこいという騒ぎだ。おれも、どうなるかと思うから、交番へくっついてった」「あきれたね、重いものしょって、交番へついていくやつがあるかね」「こんなおもしれぇもの、めったに出くわせねぇや。ようやく示談でおさまったんで、安心だ」「何が安心だよ」
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「それからここへこようと思って大通りへ出て四つ角へ来ると、大家のとこの赤犬とどっか黒犬がけんかをしてるんだ。ところが赤犬の旗色が悪くなって下になっちゃったから、見て見ぬふりはできねぇ。そばへ行って『赤、ウシウシ』と声をかけると、赤のヤツ急に勢いづいて、ぴょいと立ち上がった拍子におれが引っくり返っちまった。ところがツヅラが重いもんで起き上がれねぇ。もがいているのを、通りがかりの人に助けてもらった」「やだねぇ、意気地がないねぇ、それでどうしたの」
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「どんどん歩いたさ。ところが、どこを歩いても家が見つからねぇんだ。しかたがねぇから引っ返して、元の家へもどったらガランとして、何もありゃしねぇ。そこへうまいぐあいに大家が来たから、頼んでここへ連れて来てもらったってわけよ」「ほんとにやんなっちゃうね、外も暗くなってきたから、かたづけは明日にすることにしたの。ところがほうきを掛けようと思ったら釘がないんだよ、ちょっと釘を打っておくれよ」「それみろ、そういうことになったら、大工のおれでなきゃ、手に負えねぇだろ、べらぼうめ」
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ところが、柱と間違えて、瓦釘という長いやつを壁に打ちこんでしまいます。長屋は棟続きなので、隣に突き抜けて物を壊したかもしれません。かみさんが心配し「おまえさん、落ちついてよくあやまるんだよ。落ちつきゃあんたも一人前なんだから」と、いい含めて聞きに行かせると、亭主は向かいの家に入って、またおおしくじり。
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すったもんだでようやく隣に行けば、隣の主人に、「つかぬことをお伺いしますが、お宅のおかみさんとは、ちゃんと仲人があって一緒になりましたか?」「たしか仲人が入ってもらいましたよ。それがどうかしましたか」「実はあっしどもは&hellip;&hellip;」と、ノロケかたがたなれそめ話。「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出し、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に長い釘の先が出ています。「こりゃ大変だ。明日からここへほうきをかけにこなくちゃ」と、トンチンカンなことをいうので、「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家族は何人で?」「へえ、女房と、3年前から中気を患ってる78になる親父と&hellip;&hellip;いけねえ、元の長屋の2階へ忘れてきた」「こりゃ驚いた、親を忘れてくる人がありますか」
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「なーに、親を忘れるくれぇ当たりめぇ、酒飲むと、ときどき我を忘れます」
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「4月26日にあった主なできごと」
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BC479年　孔子死去&hellip;古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子が、亡くなったとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で『論語』としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代には、もっとも大切な学問とされていました。
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1863年　牧野富太郎誕生&hellip;明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこんだ民間の大植物学者となった牧野富太郎が生れました。
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1986年　チェルノブイリ原発事故&hellip;ソ連(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、後に決められた国際原子力評価尺度において最悪のレベル7に分類された爆発事故がおこり、世界を震撼させました。ソ連政府は2日後にようやく事故を発表、のちに事故は運転員の規則違反と操作ミスが主な原因で、原子炉の設計にもミスがあったともいわれています。ソ連政府の発表による死者数は33名ですが、事故処理にあたった軍人や炭鉱労働者に多数の死者が確認されています。いまも被爆者は、やけどや白血病などに苦しめられており、長期的な観点から見た場合の死者数は、数十万人にものぼると指摘する専門家もいます。
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         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/04/post_1378.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">おもしろ落語</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 26 Apr 2012 05:03:18 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>｢新撰組」 と近藤勇</title>
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今日4月25日は、江戸幕末期に「新撰組の局長」として幕府側に立って活躍した近藤勇（こんどう いさみ）が1868年に亡くなった日です。
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1834年、武蔵国多摩郡(現・調布市野水)の農民の子として生まれた勇は、15歳のとき近藤周介の剣術道場に入門し、めきめき腕をあげていきました。やがて盗人を退治するなどして認められ、1849年には周介の養子となって農民の子を中心とした試衛館道場を開き、のちに新撰組の副長となる土方(ひじかた)歳三と協力して、多摩から八王子にかけて出稽古にはげみました。
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1853年のペリーの黒船による来航以来、尊王攘夷運動が高まるなか、志士の集まる京都を制圧する必要性を感じた幕府は、1863年、14代将軍家茂が京都へ上洛する際の警護する浪士を募集しました。これに応募した勇は、道場一門の土方や沖田総司らを引き連れて、2月に京都へ向けて出発しました。任務を終えた浪士組は江戸帰還するはずでしたが、近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は、京都守護職を務める会津藩主松平容保(かたもり)に嘆願書を提出して京に残留、「壬生浪士組」と名乗って活動を開始しました。結成当初は運営がスムーズに行かず、近藤派と芹沢派の二つの派閥体制となりました。
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同年、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」が起こると、壬生浪士組は長州藩の残党狩りに出動、働きぶりが認められ「新撰組」を名乗り、近藤らは芹沢一派を暗殺し、近藤局長・土方副長、1番隊長沖田をはじめ数十人の新体制を構築すると、日々、幕府の命ずるままに警察の役割をはたしていきました。
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1864年6月の「池田屋の変」では、新撰組は独力で、もっとも過激だった尊王攘夷派の志士たちを壊滅させたことで、朝廷と幕府に高く評価されて、組員は一気に増え250名を越えるほどになりました。1867年には幕府に最も信頼される治安行動隊として「幕臣」に加えられたばかりか、近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うまでになりました。
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しかし、時代は急速に流れ、鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州率いる官軍に敗れた新撰組は、幕府軍艦で江戸にもどり、幕府の命を受けて名を変えながら隊を再編して甲府へ出陣。しかし、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走、下総国流山で新政府軍に包囲されて出頭し、近藤は33歳で斬首されたのでした。その後土方は、榎本武揚とともに箱館(函館)の五稜郭にたてこもり、蝦夷共和国をこしらえて新政府軍に抵抗、近藤の死の翌年、最後の抵抗戦で戦死しました。
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近藤や土方の生涯は、殺人者集団として反革命の象徴でしたが、幕府譜代の大名や旗本たちが幕府を見捨てるなか、あくまで幕府いちずに戦い続けて斬首、戦死した行動に共感する多くの人たちに支持されています。
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「4月25日にあった主なできごと」
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1599年　クロンウェル誕生&hellip;イギリス清教徒革命で、議会を率いて王党派を破り、国王を処刑して独裁政治を行ったクロンウェルが生れました。
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1840年　チャイコフスキー誕生&hellip;『白鳥の湖』『くるみわり人形』などのバレー組曲をはじめ、交響曲『悲愴』など数々の名曲を残したチャイコフスキーが生れました。
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1953年　DNAの構造&hellip;イギリスの科学誌『ネイチャー』に、英米の科学者二人がDNA(デオキシリボ核酸)が、生物の細胞にめずらしい構造をもっていることを発表しました。この発見により、生物学は大きく発展、最近では犯罪捜査の犯人割り出しにDNA鑑定が威力を発揮しています。
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         <link>http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/04/post_1377.html</link>
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         <pubDate>Wed, 25 Apr 2012 05:47:33 +0900</pubDate>
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