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こわれた茶わん

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 93]

むかし、乱暴な王さまが、国をおさめていたことがありました。この王さまは、すばらしいものをたくさん持っていましたが、なかでも、ひとつの湯飲み茶わんをなによりもたいせつにして、宮殿の金でできた台の上に飾っていました。この茶わんには、とても小さな模様が描いてあって、それがキラキラ輝くのを見ると、心が安らぐのでした。大むかし、この地方でいちばん優れていた陶工がこしらえた茶わんでしたが、その陶工は、自分の秘術をだれにも伝えずに亡くなったため、それ以後はだれにも作ることができない宝物でした。

ところがある日、王さまが戦いに勝って帰国した時のことです。家来のひとりが、凱旋(がいせん)の角笛を高らかに吹きならしたため、金の台がぐらっとゆれ、あの茶わんが転がり落ちて、こなごなに割れてしまいました。王さまは、すぐに国じゅうの有名な陶工たちを集めると、こわれた茶わんを見せて、「これを元通りにつなぎ合わせよ。ただし、つなぎ目がわからないようにしなくてはならない。もし、つなぎ目がわかったら、おまえたちの命はないものと思え」といいわたしました。

陶工たちはびっくりしました。こなごなになっているかけらをつなぎあわせ、元通りにするなんて、とうていできそうにありません。でも、恐ろしい王さまのいいつけです。みんなは、すごすご宮殿をあとにして、茶わんのかけらを前にしながら、なにかいい方法がないかをみんなで考えました。「そうだ、ウスマンじいさんに聞いてこよう。あのじいさんは百年も生きているばかりか、いまもすばらしい水がめをつくっているというではないか」と、ひとりがいうと、ほかの人も賛成したために、みんなで田舎にすんでいるじいさんをたずねました。

「だめだね、こりゃ。つなぎようがない」「じいさん、なんとかわしらの命を助けてくれないかな」じいさんは、目をつむり、長い間考えていましたが、やがて口を開きました。「よしよし、わざわざやってきたおまえたちを見殺しにはできない。王さまのところへ行って、1年間の猶予をもらってきなさい。その間になんとかしよう」といいました。

それからじいさんは、仕事場に閉じこもって、いちども姿を見せません。そして、1年が過ぎていきました。陶工たちは、わずかの望みをいだいていましたが、そのころはもうあきらめ、みんな死刑の用意のできた広場に引き出されていました。まわりを囲んでいる人々から、泣き声が聞こえます。ついに、死刑を告げる太鼓が打ち鳴らされました。

すると、その時です。すっかりやせほそったウスマンじいさんが、ロバに乗ってやってきました。うしろには、孫のジャフールが包みを持って、ついてきます。じいさんは、陶工たちの前にやってくると、ジャフールに包みをあけさせました。なんと、キラキラ光る、すばらしい茶わんが現れたではありませんか。「すごい、奇跡だ」みんな、いっせいに驚きの声をあげました。王さまは、茶わんを手に取り、よくよくながめまわしました。でも、つなぎ目はもちろん、ひびひとつ見当たらないので、満足げにうなづきました。

陶工たちのひとりは、さっそく大きな木の鉢をもつと、集まっている人たちのあいだを歩きました。男たちは金貨を投げ入れ、女たちは、耳輪や腕輪、首飾りなどを入れました。鉢はみるみる山もりになると、陶工はその鉢をじいさんの前にさしだして、「じいさん、みんなの感謝の気持ちです。受け取ってください」すると、じいさんは「気持はうれしいが、礼などいらんよ。わしは力の限りをつくしたのだから、それで満足。その結果、こうして宝の茶わんを後世に残すことができたし、おまえさんたちの命を助けることができたのだから」というと、さっさと帰ってしまいました。

じいさんの評判は、たちまち国じゅうに広まり、たくさんの陶工たちが、じいさんの秘術を教わりにやってきました。「秘術などというものはない。おまえさんたちと同じように、泥をねり、砂をまぜ、水を入れ、形をこしらえて焼き、さますだけだ」というばかりでした。でも、陶工たちは、じいさんが、自分の秘術を人に教えたくないために、そういっているのだと思っていました。

孫のジャハールは、幼いころからじいさんのそばについて、焼きものの修行をしてきました。でも、陶工と同じように考えていました。ある日「おじいさん、ぼくの一生のお願いです。ぼくにだけは、おじいさんの秘術を教えてくれないでしょうか」と、たずねました。ところがじいさんは、じっと腕組みしてるばかりで、なにもいいません。それどころか、仕事場にこもったまま出てきません。やがて、できあがったばかりの水がめを、市場へ売りにでかけました。

その留守のときです。ジャハールの妹が、兄をじいさんの仕事場へつれていきました。「あたし、ごはんをもっていったときに、見ちゃったんだけど、この包みになにが入ってると思う?」ジャハールが包みを開けると、思わずあっと、叫びました。そこにあったのは、王さまの宝の茶わんのかけらだったのです。ジャハールは、孫にさえ、新しい茶わんを作ったことを秘密にしていたのを知り、涙を流して仕事場を出たのでした。
 

「7月25日にあった主なできごと」

1801年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図「大日本沿海輿地全図」を中心となって完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1894年 日清戦争始まる…日本軍は朝鮮の豊島(ほうとう)沖で中国の清艦隊を攻撃し、日清戦争がはじまりました。朝鮮を属国とする清と、朝鮮を清から奪おうとする日本との対立が原因でした。

1978年 古賀政男死去…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家古賀政男が亡くなりました。

投稿日:2013年07月25日(木) 05:09

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)