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手なし娘

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 105]
 
昔、あるところに、夫婦とかわいいひとり娘がくらしていました。ところがあるとき、母が病気で死んでしまい、父親は新しい母親(まま母)をもらいました。けれど、まま母は、かしこく美しい娘がにくらしくてなりません。なんとかして追い出そうと考えていました。そこで、父親に「あの子は、わたしと暮らすのがいやなので、神さまに祈って、わたしをのろい殺そうとしています」と、つげ口をしたのです。

つげ口を信じた父親はひどくおこりました。そしてある日、祭を見にいこうと、娘にきれいな着物をきせて家を出ました。ところが、祭というのに山を越えようとするので「父さま、祭はどこにあるのです」と聞くと、「ふた山越えた、城下の祭さ」といって、山の奥へ入っていきました。ひと山越えた谷間のあたりで、「昼飯にしよう」と、もってきた握り飯を食べはじめました。そのうち娘は、歩きくたびれたために、いねむりをはじめました。それを見た父親は、腰にさしていた刀で、娘の右腕を切り落とし、泣きさけぶ娘をそのままにして、ひとりで山をおりてしまいました。

血まみれになって転げながら後を追いましたが、もう父親のすがたはありません。すてられたのがわかると、どうしてこんなひどい目にあわされたのか、娘はかなしくてなりませんでした。それでも、谷川の水で切られた腕の傷口を洗い、草の実や木の実などを食べて、どうにか生きぬいておりました。

あるとき、馬にのった若者が、山へ猟にきました。そのうち若者は、片腕の娘をみつけました。「どうしてこんな山の中にいるのかい?」娘は目にいっぱい涙をためて「ある人に腕を切られて、この山にすてられたのです」娘から事情をきいた若者は、娘に深く同情しました。「なにはともあれ、わたしの家にくるがよい」と、若者は娘を馬にのせて山を降りました。りっぱな家に帰ると、「母さま、狩は不猟でしたが、山の中で片腕のない娘をひろって帰りました。とてもかわいそうな娘ですから、どうか家において下さい」。若者の母親も心やさしい人で、自分の娘のようにかわいがりました。そのうち娘は、若者の嫁になり、そのうち、赤ちゃんが生まれることになりました。

ちょうどそのころ、若者はきゅうに江戸へいくことになりました。「母さま、子どもが生まれましたら、すぐに早飛脚を立ててください」といいおいて、旅立ちました。それからまもなく、かわいい男の子が生まれました。母親はすぐに、近くに住む使い走りの男に頼んで、早飛脚を立てました。むかしは、遠くに手紙をとどけるために、飛脚がわざわざ持っていったのです。たのまれた飛脚は、野をこえ山をこえて走りました。とちゅうでのどがかわいたのである家に立ちより、水をもらって飲みました。ところが、その家は娘が生まれた家でした。

まま母は、早飛脚に「飛脚さん、どこまでいくのですか」と、たずねました。「おらが村の長者殿の、片腕のない奥方が男の子を生んだので、江戸にいる若さまへ早知らせを持っていくところだ」と、いいました。娘がまだ生きていると知ったまま母は、飛脚に酒を出してもてなし、飛脚がうとうとしているすきに、文箱の手紙をとり出すと、「玉ともなんともたとえようのない、かわいい男の子が生れました」と書いてあります。そこでまま母は、「鬼とも蛇ともわけのわからない化けものが生れた」と書いたものとすりかえ、「帰りにもかならず寄って、江戸のみやげ話を聞かせてください」と、親切そうにいいました。

江戸で飛脚からの手紙を見た若者は、とても驚きました。けれども「鬼でも蛇でもよい、私が帰るまで大切に育てて下され」という返事を書いて、早飛脚に持たせました。早飛脚は、帰り道も、ふるまい酒にありつこうと、また寄りました。まま母は、また酒を飲ませて飛脚を酔いつぶすと、「そんな子など見たくもない。手なし嫁を見るのもいやになった。子どもといっしょに追い出して下さい」と書きかえて、文箱に入れました。

娘は、夫からの返事を読んで、どんなに悲しいと思ったかしりません。(もしかしたら、あの人は、都ですてきな女性と出あって、私なんかいやになったのかもしれない)
そう考えた娘は「母さま、このかたわものの私にかけて下さったご恩を一つも返せないで出ていくのは悲しいことです。でも、若さまの心とあればしかたありません。出ていきます」というと、子どもを背負わせてもらい、泣くなく家を出ていきました。

家は出たもののいくあてもなく、泣きさけぶ赤んぼうをあやしながら、とぼとぼ歩いていました。とてものどがかわいてきたので、小川の水をくんで飲もうとすると、背中の子どもが背からぬけ落ちそうになりました。娘はあわてて、背中の子をおさえようとしました。するとふしぎなことに、なかったはずの右手が生えて、ずりおちる子どもをしっかりと抱きとめていたのです。「わぁ、子どもが助かってよかった。右手がはえてよかったわ」とあたりを見まわすと、そばのお地蔵さんの右手がなくなっていました。「ああ、このお地蔵さんが、わたしに手をくれたんだわ。そうだ、もらったお金でここに小屋を建てて、お地蔵さんをお守りしよう」

それからまもなく、若者は、江戸での用事をすませ、子どもや妻や母に早く会いたいと、いそいで帰って来ました。けれども、子どもと妻が家を出たということを知り、がっかりしました。いろいろ話を聞くうち、仕立てた早飛脚が、手紙をすりかえられたことを知りました。

若者はあちこち探し歩きましたが、どこにもみつかりません。1年がすぎ、2年がすぎ、もうあきらめかけて、流れのそばの地蔵小屋の隣にある店屋へ腰かけました。すると、3つばかりの男の子が、「お父さん、お父さん」と寄ってきます。「それは、よそのお父さん」という女をみると、自分の妻とそっくりです。でも、手があるから妻ではないと思いました。でも、よくよく見ると、探していた妻にまちがいありません。娘は、小川のほとりで右腕をさずかったことをくわしく話しました。

こうして3人は、どんなにうれしかったことでしょう。家にもどると、母親と大祝いをして、みんなで仲良くくらしました。


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれ、衆議院議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限定されていました。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…フランスのクーベルタン男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られ、4年後に実現しました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』など、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家の三島由紀夫が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。

投稿日:2013年11月25日(月) 05:42

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)