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   <title>児童英語・図書出版社　社長のこだわりブログ</title>
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   <updated>2012-02-02T21:43:23Z</updated>
   <subtitle>30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。</subtitle>
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   <title>「国際連盟」 とウィルソン</title>
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   <published>2012-02-02T20:58:09Z</published>
   <updated>2012-02-02T21:43:23Z</updated>
   
   <summary> 今日2月3日は、第28代アメリカ大統領で、「国際連盟」の創立に力をそそいだウィルソンが、1924年に亡くなった日です。 1856年に、バージニア州スタントンに生まれたウッドロー・ウィルソンは、父親が牧師をつとめたジョージア州オーガスタで成長しました。少年時代に南部で目にした南北...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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      <![CDATA[<p>
今日2月3日は、第28代アメリカ大統領で、「国際連盟」の創立に力をそそいだウィルソンが、1924年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1856年に、バージニア州スタントンに生まれたウッドロー・ウィルソンは、父親が牧師をつとめたジョージア州オーガスタで成長しました。少年時代に南部で目にした南北戦争の悲惨な状態に強いショックを受け、平和を大切にする心が芽生えたといわれています。1879年バージニア大学で1年間法律を学ぶも体調不良のために自宅に戻って法律の勉強を続け、ニュージャージー州のプリンストン大学で法律を学んで卒業したのち弁護士になりました。さらに1883年、ジョン・ホプキンズ大学院に入って「連邦議会制論」の論文で博士号をとり、1888年からプリンストン大学で政治学・経済学を教え、1890年同大学教授、1902年には学長に就任し、大学の民主化に力をそそぎました。
</p>
<p>
1910年、民主党に推されてニュージャージー州知事となり、進歩的なさまざまな改革で注目され、革新知事としてアメリカ全土にその名が知れわたりました。1912年に民主党の大統領候補となり、「ニューフリーダム（新しい自由）」のスローガンを掲げて当選、1913から1921年まで2期8年間、アメリカ合衆国大統領として第1次世界大戦中の難しい政局を担当しました。大戦初期は中立を守って内政に力をそそぎ、関税の引き下げや、連邦準備銀行制、反トラスト法の制定など、大資本による企業独占に歯どめをかける革新的諸政策を、公約通り推進しました。
</p>
<p>
世界大戦中の1915年、アメリカ人を乗せたルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、その後もドイツの潜水艦攻撃がやまなかったことで、1917年4月、連合国がわに参戦してドイツに宣戦布告しました。そして1918年1月、大戦終結のきっかけとなる「世界平和に関する14か条」の提案を発表しました。ここには、秘密外交の停止、海洋の自由、通商の自由、軍備の縮小、国際連盟設立などが含まれていました。
</p>
<p>
大戦後の1919年の「パリ平和会議」に出席したウィルソンは、世界の恒久平和を基盤とする「国際連盟」の創設を決めた「ベルサイユ条約」を成立させました。この功績により、ノーベル平和賞を受賞しましたが、自国のアメリカは上院の反対で連盟の参加をこばまれてしまいます。心を痛めたウィルソンは、アメリカ各地をまわって民衆に連盟参加を直接訴えたものの、脳梗塞に倒れてしまいました。
</p>
<p>
1920年の選挙は反対党の共和党の勝利に終わり、その進歩主義的な政策は後の <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden16-7.html">ルーズベルト</a> に受け継がれます。国内外の政治体制の変革を追求することを使命とするウィルソンの理想主義は「ウィルソン主義」と呼ばれ、その後のアメリカの外交政策の指針となるなど、見事なリーダーシップや功績から、最も偉大な大統領の一人とされています。
</p>
<p>
<br />
「2月3日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1468年　グーテンベルク死去&hellip;ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られる <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden04-2.html">グーテンベルク</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1637年　本阿弥光悦死去&hellip;豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden24-5.html">本阿弥光悦</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1809年　メンデルスゾーン誕生&hellip;世界3大バイオリン協奏曲の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢｣「フィンガルの洞窟」などを作曲した <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden09-7.html">メンデルスゾーン</a> が生まれました。
</p>
<p>
1901年　福沢諭吉死去&hellip;「学問のすすめ」「西洋事情」などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yukichi/index.html">福沢諭吉</a> が亡くなりました。
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>「平等院」 と藤原頼道</title>
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   <published>2012-02-01T20:45:45Z</published>
   <updated>2012-02-01T22:38:32Z</updated>
   
   <summary> 今日2月2日は、京都の宇治にある「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(ふじわら よりみち)が、1074年に亡くなった日です。 992年、藤原氏の勢いを最も盛んにした太政大臣 藤原道長 の長男として生まれた藤原頼道は、父の力のおかげで、20歳前後に権中納言から権大納言へ、さらに25歳...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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      <![CDATA[<p>
今日2月2日は、京都の宇治にある「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(ふじわら よりみち)が、1074年に亡くなった日です。
</p>
<p>
992年、藤原氏の勢いを最も盛んにした太政大臣 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/fujiwaranomichinaga/index.html">藤原道長</a> の長男として生まれた藤原頼道は、父の力のおかげで、20歳前後に権中納言から権大納言へ、さらに25歳のときには内大臣へと、おどろくほどの早さで出世しました。そして、内大臣になった年に、父から摂政の位をゆずり受け、2年のちには、父もならなかった「関白」の地位につきました。
</p>
<p>
頼道は、こうして27歳の若さで、天皇を助けながら国の政治をおこなう権力をにぎり、その後およそ50年のあいだ摂政と関白の地位をひとりじめして、藤原氏の権威を守りつづけるようになりました。
</p>
<p>
後一条、後朱雀、後冷泉の3人の天皇につかえた頼道は、国の政治を思いどおりに進めながら、いっぽうでは、荘園とよばれる自分の土地からばく大な収入をえて、贅沢をきわめつくした貴族生活を楽しみました。しかし、国の政治を思いどおりにおこなっても、国を改めるような新しい政治には、ほとんどとりくみませんでした。幸い、頼道が関白をつとめた時代には、安房国（千葉県）で国の役所の国府が関東武士におそわれた「平忠常の乱」を除けば、朝廷をゆるがすほどの大事件も起こりませんでした。
</p>
<p>
もともと性格がおとなしかった頼道は、父の道長が残してくれた大きな権力を守りぬくことだけで、精一杯だったのでしょう。そのうえ、頼道は、自分のむすめを天皇の妃にして皇子を産ませ、藤原氏と天皇家との強い結びつきをもたなければならないという、藤原一族のための役割をになっていました。ところが、天皇のもとへ、娘を嫁がせても、わざわざ養女を育てて嫁がせても、生まれてくるのは女の子ばかりでした。そして、ついには、藤原氏と血のつながりのうすい後三条天皇が即位して、藤原氏の運命も傾むき始めるようになってしまいました。
</p>
<p>
60歳になった頼道は、父からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」と改めて鳳凰堂を建て、阿弥陀如来像をまつって自らの心をなぐさめました。鳳凰堂は、これこそ極楽浄土だといわれるほど見事ものでしたが、頼道は、平等院に遊んでも、鳳凰堂で祈り続けても気が晴れないまま、やがて関白をやめると出家して、82歳で世を去りました。藤原氏の勢いはこうして衰えていきましたが、平等院には、藤原氏が栄えた時代の美術がたくさん残されました。
</p>
<p>
<br />
「2月2日にあった主なできごと」
</p>
<p>
962年　神聖ローマ帝国成立&hellip;ドイツ王オットー1世は、教皇ヨハネス12世より帝冠を受け、神聖ローマ帝国が成立しました。現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を含む帝国は、ナポレオンによってその名称が消されるまで、844年も存続しました。ただし大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のハプスブルク家が支配するオーストリア帝国やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していきました。
</p>
<p>
1848年　アメリカ・メキシコ戦争終結&hellip;1846年にテキサスの国境線をめぐる紛糾で始まった米墨両国の戦争は、この日アメリカが勝利して終結しました。その結果、ニューメキシコがアメリカの領土となりました。
</p>
<p>
1907年　メンデレーエフ死去&hellip;ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden11-5.html">メンデレーエフ</a> が亡くなりました。
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>「フォッサマグナ」 を発見したナウマン</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/02/post_1325.html" />
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   <published>2012-01-31T20:23:00Z</published>
   <updated>2012-01-31T20:54:34Z</updated>
   
   <summary> 今日2月1日は、明治の初期に来日し、近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成したドイツの地質学者ナウマンが、1927年に亡くなった日です。 1854年、東ドイツのマイセンで生れたハインリヒ・エドムンド・ナウマンは、1874年にミュンヘン大学を卒業後、バイエル...</summary>
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      <![CDATA[<p>
今日2月1日は、明治の初期に来日し、近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成したドイツの地質学者ナウマンが、1927年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1854年、東ドイツのマイセンで生れたハインリヒ・エドムンド・ナウマンは、1874年にミュンヘン大学を卒業後、バイエルン地質調査所に勤務して、鉱石や化石の研究をしていました。
</p>
<p>
1875年に明治政府に招かれて来日、文部省の命を受けて日本各地の鉱石を調べました。翌年「開成学校」で地質学を教え、1877年に東京帝国大学地質学教室の初代教授となりました。講義のいっぽう、野外活動を活発におこない、中部・近畿地方の地質調査旅行にもでかけました。1878年にはその体験から、日本じゅうをくまなく地質調査をして、地形図をこしらえあげる重要性を提言、政府による地質調査所が設立されると、そこの技師長に就任して、全国各地の地質構造の解明に尽力し、初めて等高線を記した地形図と地質図を作成するという、ぼう大で貴重な作業をなしとげました。その調査は本州、四国、九州と、距離は1万kmに及んだと伝えられています。
</p>
<p>
1885年にその成果を「日本列島の生成と起源について」という論文に発表、地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至ることを重視して、褶曲山脈である日本列島は、「フォッサマグナ」(ラテン語・大きな割れ目)で東西に二分していることを指摘しました。
</p>
<p>
またナウマンは、瀬戸内海の小豆島や、浜名湖北岸の工事現場などで、日本だけにみられる象の化石を発見し、大昔の日本列島に象がいたことを明らかにしました。のちにこの象は「ナウマン象」と命名されています。
</p>
<p>
1885年に帰国後のナウマンは、ミュンヘン大学の助教授として地質学や地理学を講じたのち鉱山会社に関連した仕事につき、晩年は病に悩まされながら、フランクフルトで74年の生涯を閉じました。
</p>
<p>
<br />
「2月1日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1874年　佐賀の乱&hellip;前参議の江藤新平をリーダーとする明治新政府に不満を持つ佐賀県の士族が、政商の小野組を襲い「佐賀の乱」を起こしました。
</p>
<p>
1922年　山県有朋死去&hellip;明治・大正時代に政治家を兼ねながら、「明治の元勲」といわれ陸軍の最高実力者として活躍した山県有朋が亡くなりました。
</p>
<p>
1953年　テレビ放送開始&hellip;NHKは、日本初のテレビ本放送を開始しました。当時のテレビは値段が高かったため、契約者はわずか866名でした。
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>「日本近代哲学の父」 西周</title>
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   <published>2012-01-30T20:01:26Z</published>
   <updated>2012-01-30T22:03:46Z</updated>
   
   <summary> 今日1月31日は、明治の開明期に啓蒙思想家・教育者として活躍した西周（にし あまね）が、1897年に亡くなった日です。 1829年、津和野藩（今の島根県津和野）の藩医の子として生まれた西周は、幼少の頃から漢学の手ほどきを受け、12歳のとき藩校の養老館で朱子学を学びました。184...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/">
      <![CDATA[<p>
今日1月31日は、明治の開明期に啓蒙思想家・教育者として活躍した西周（にし あまね）が、1897年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1829年、津和野藩（今の島根県津和野）の藩医の子として生まれた西周は、幼少の頃から漢学の手ほどきを受け、12歳のとき藩校の養老館で朱子学を学びました。1849年には藩から儒学を深く研究することを命じられ、大坂や岡山に留学したのち、藩校の教官となりました。
</p>
<p>
1853年のペリー来航の際、事情を調べるために江戸に派遣された西は、蘭学にふれると、江戸に残って洋学を学ぶことを選択しました。翌年脱藩すると、困窮のなか必死で英学を学び、中浜万次郎(ジョン万)からも直接英語の発音を学んだといわれています。
</p>
<p>
1857年に幕府の蕃書調所の教授並手伝となり、同僚の津田真道らと知り合って、哲学や西欧の学問を深く研究しました。西と津田は、海外留学の必要性を幕府に願い出ると、それがかなって1862年幕命によりオランダへ留学、法学、哲学・経済学・国際法などを学びました。特に西は、カント の哲学に傾倒しました。
</p>
<p>
1866年に帰国すると、開成所教授に就任し15代将軍徳川慶喜の側近として活動しながら、「万国公法」の翻訳を命じられて1868年に出版、明治維新による王政復古をへて、徳川家によって開設された沼津兵学校校長にむかえられ、組織と管理に全力をそそぎました。兵学校付属小学校は後の小学校制度の基となっています。1870年、山県有朋 に乞われて明治政府に出仕、山県のブレーンとして兵部省につとめて西洋の軍事制度関連の翻訳や調査にあたるいっぽう、自宅に私塾「育英社」を開いて、たくさんの弟子を育てました。1873年に、森有礼が「民六社」を創設すると、<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yukichi/index.html">福沢諭吉</a>・加藤弘之・中村正直・西村茂樹らと加わり、機関紙『明六雑誌』に、西洋哲学の翻訳・紹介など、哲学の関係の論文を多く寄稿して、「哲学」をわかりやすく紹介しました。
</p>
<p>
さらに、文部省・宮内省などの官僚を歴任し、「軍人勅諭」の草案を起草するなど、軍政の整備とその精神の確立につとめました。また東京学士会院会長、東京師範学校長、獨逸学協会学校長などをつとめ、教育行政の面でも重要な役割をにないました。元老院(1875年〜90年におかれた立法機関)議官や、貴族院議員にも任じられました。
</p>
<p>
なお西は、西洋語を「哲学」「主観」「客観」「芸術」「理性」「科学」「技術」など、苦心しながら、たくさんの訳語を生みだしたことでも知られています。
</p>
<p>
<br />
「1月31日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1797年　シューベルト誕生&hellip;『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲した <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/schubert/index.html">シューベルト</a> が生まれました。
</p>
<p>
1947年　ゼネスト中止命令&hellip;激しいインフレを背景に生活を脅かされた労働者たちは、共産党の呼びかけで2月1日にゼネスト決行を計画しましたが、マッカーサーGHQ総司令官は、ゼネストは日本経済を破滅においやると、中止を指令しました。
</p>
<p>
1958年　アメリカ初の人工衛星&hellip;前年にソ連に先を越されたアメリカは、初の人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功しました。
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>二番煎じ</title>
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   <published>2012-01-29T20:36:02Z</published>
   <updated>2012-01-29T17:42:24Z</updated>
   
   <summary> 「おもしろ古典落語」の57回目は、『二番煎(にばんせん)じ』というお笑いの一席をお楽しみください。 火事と喧嘩は江戸の花とかいって、名物といわれるほど火事がよくありました。特に真冬は乾燥してるために大火事がたえません。そこでどこの町内にも番小屋というのがありまして、町内のだんな...</summary>
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      <![CDATA[<p>
「おもしろ古典落語」の57回目は、『二番煎(にばんせん)じ』というお笑いの一席をお楽しみください。
</p>
<p>
火事と喧嘩は江戸の花とかいって、名物といわれるほど火事がよくありました。特に真冬は乾燥してるために大火事がたえません。そこでどこの町内にも番小屋というのがありまして、町内のだんな方が交代で番小屋を出まして、時間をきめて町内を回って歩きます。寒いので手をぬきたくても、町奉行の役人が見まわってるので、しかたがありません。しんしんと冷えこむ夜更けの町を連れだって、拍子木や鳴子や鉄棒を鳴らしながら『火のぉーよぉーじーん』&hellip;&hellip;、番小屋にもどってくるころには、だれもが冷えきってしまいます。
</p>
<p>
「行ってまいりました、さぁ、お次の番ですよ。交代、こうたい、あぁ火の側はあったかいね。何よりのごちそうですねぇ。炭をどんどんついであたたまりましょう」「あのーっ、月番さん」「なんです?」「じつは、今晩家を出るときに、娘が『おとっつぁん、寒いから&hellip;歳ぃとってんだし、火回りで風邪ひくといけない』って、このひょうたんの中に、お酒を入れて持ってきたんですが、みなさんであがっていただきたい&hellip;」「お酒? 近江屋さん、ここは番小屋ですよ、番小屋でお酒を飲んだってことが役人に知れたら、こりゃ大変ですよ。あなた、このなかで一番の年かさなんだから、そんなことしたらいけないって、止める立場じゃないですか」「いゃっ、こりゃ面目ない、じゃぁ、しまいましょう」「なにも、ひっこめることはないでしょ、せっかく出したんだから」「というと、どうしましょう?」「飲むんです」「たった今、番小屋で酒飲んじゃいけないって&hellip;」「へへへ、酒だからいけないんです。でも煎じ薬なら、さしつかえないでしょ」「なるほど、こりゃ、おそれいりました」「おそれいることはありません、わたしもふところに、この通り1本隠してあります」「なんだい、あんた、おどかしちゃいけないよ」「えー、月番さん、じつはあたしも&hellip;」「なんだ、みんな持ってきてるのかい」
</p>
<p>
土瓶の茶を捨てて「煎じ薬」を入れると、炭がおこってますからすぐに熱燗になって、酒盛りがはじまります。すると肴が欲しくなります。おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたといいます。それも、土鍋を背負ってくるという手回しのよさ。そのうち味噌が出る、ネギが出る。さかずきをやったりとったり、すっかりいい気持になってきました。「あたしゃねぇ、お神酒がまわってくると、どどいつをやりたくなるんです」「冗談でしょ、番小屋でどどいつなんて、ダメですよ」「いいじゃありませんか、ねぇ&hellip;つつん、つん、つつ&hellip;んとん&hellip;」いい調子になってると、しんばり棒をかった表戸を、ドンドンたたくものがあります。
</p>
<p>
「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ、見回りの者である」「え? おぅ、こりゃいけねぇ、お役人だよ、あぁ、どうしよう」あわてて土瓶と鍋を隠しましたが、全員酔いもさめてビクビクです。「あー、今わしが『番』と申したら『シぃ』と申したな。あれは何だ」「へえ、寒いから、シ（火）をおこそうとしたんで」「それに、土瓶のようなものを隠したな」「風邪よけに煎じ薬を飲んでましたんで」役人、ニヤリと笑って「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」「へえ、口直しでして&hellip;」「ならば、その口直しを出せ」もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまいます。「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
</p>
<p>
「ないとあらばいたしかたがない。しからば拙者もう一回りまわってくるから、&hellip;二番を煎じておけ」
</p>
<p>
<br />
「1月30日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1649年　チャールズ1世処刑&hellip;1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。
</p>
<p>
1902年　日英同盟&hellip;清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道をたどりはじめました。
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>イタリア歌劇最大の作曲家・ベルディ</title>
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   <published>2012-01-26T20:29:43Z</published>
   <updated>2012-01-27T11:10:18Z</updated>
   
   <summary> 今日1月27日は、オペラ『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などを作曲し、19世紀イタリア・ロマン派音楽の作曲家ベルディが、1901年に亡くなった日です。 1813年、イタリアの中北部ロンコーレ近郊の村で農業を兼ねる宿屋の子として生まれたジュゼッペ・ベルディは、幼いころから音楽の...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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      <![CDATA[<p>
今日1月27日は、オペラ『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などを作曲し、19世紀イタリア・ロマン派音楽の作曲家ベルディが、1901年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1813年、イタリアの中北部ロンコーレ近郊の村で農業を兼ねる宿屋の子として生まれたジュゼッペ・ベルディは、幼いころから音楽の才能をみせはじめ、7歳のころには村の教会のオルガニストに音楽を学びはじめました。12歳のころには先生をしのぐほどの腕前になりましたが、家が貧しいために働きに出なくてはなりません。しかし、ベルディの才能を惜しむ村の有志が学資を出し合って、ベルディに音楽の勉強を続けさせてくれたのです。1832年にミラノに出たベルディは、正式に作曲法を学び、1836年に聖バルトロメオ教会の楽長となりました。
</p>
<p>
1839年、最初のオペラ『伯爵オベルト』をミラノで初演すると好評を博し、1842年の『ナプッコ』の成功で、オペラ作曲家としての地位を確立すると、1850年までの間に『ロンバルディア人』『ジャンヌダルク』など14作ものオペラを次々に成功させて、ロッシーニの後継者と目されるようになりました。ベルディのオペラの大きな特長は、メロディ中心の伝統的なオペラをベースに、ドラマ性を重視したところに新しさがありました。そして、1851年にフランスの文豪ビクトル・ユゴーの戯曲を脚色した、醜いせむし男の道化師を主人公にした『リゴレット』を発表すると、第4幕の<a href="http://www.youtube.com/watch?v=G2Hbk7bBEgg"> 「女心の歌」</a> が特に評判になり、たちまち広まって最も親しまれるオペラの歌となったばかりか、ベルディの名を世界的なものにしました。
</p>
<p>
第1級のオペラ作曲家となったベルディは、1853年に『椿姫』を発表しました。これもデュマの小説を脚色したもので、青年アルマンが娼婦ビオレッタに恋し、真の愛にめざめるものの父親から引き離され、ビオレッタは結核で亡くなるというストーリー。第1幕の<a href="http://www.youtube.com/watch?v=z1toLTNON4w"> 「乾杯の歌」</a> 「ああ、そはかの人か」など、メロディの美しさは有名です。
</p>
<p>
さらに1871年、同時代のドイツのワーグナーのオペラを研究し、その壮大な管弦楽法を採り入れた<a href="http://www.youtube.com/watch?v=l3w4I-KElxQ&feature=related"> 『アイーダ』 </a>を書いて大成功をおさめました。この作品は、スエズ運河の開通を祝ってエジプト国王に依頼され、カイロで初演されたスペクタクルオペラで、捕らわれたエチオピアの王女アイーダとエジプトの士官ラダメスの恋の物語です。第2幕には数百人の合唱団やバレエ団が登場するという豪華さ、「凱旋行進曲」「バレエ音楽」はここに登場するほか、「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、わが故郷」など、優れた曲に満ちあふれています。
</p>
<p>
ベルディが生涯に発表したオペラは26曲、今も世界じゅうのオペラハウスで演じられ、親しまれています。
</p>
<p>
<br />
「1月27日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1219年　源実朝死去&hellip;鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。
</p>
<p>
1756年　モーツァルト誕生&hellip;ハイドンやベートーべェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/mozart/index.html">モーツァルト</a> が生まれました。
</p>
<p>
1832年　キャロル誕生&hellip;イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。
</p>
<p>
1902年　八甲田山遭難事件&hellip;日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>日本の占領政治を指揮したマッカーサー</title>
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   <published>2012-01-25T20:15:29Z</published>
   <updated>2012-01-27T11:03:43Z</updated>
   
   <summary> 今日1月26日は、アメリカ陸軍の将軍で、太平洋戦争後に連合国の日本占領軍(GHQ)最高司令官となったマッカーサーが、1880年に生まれた日です。 ダグラス・マッカーサーは、軍人だった父の任地南部アーカンソー州リトルロックの兵営宿舎で生まれました。父と同じ陸軍軍人の道を歩み、19...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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      <![CDATA[<p>
今日1月26日は、アメリカ陸軍の将軍で、太平洋戦争後に連合国の日本占領軍(GHQ)最高司令官となったマッカーサーが、1880年に生まれた日です。
</p>
<p>
ダグラス・マッカーサーは、軍人だった父の任地南部アーカンソー州リトルロックの兵営宿舎で生まれました。父と同じ陸軍軍人の道を歩み、1903年に陸軍士官学校をトップの成績で卒業、陸軍少尉となりました。卒業後は、アメリカの植民地だったフィリピンに長く配属されました。父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった1905年には、マッカーサーも副官として東京で勤務する体験もしました。
</p>
<p>
その後陸軍省にもどって、極東の事情に詳しい軍人として広報班長という要職につきます。1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦した際には、史上最も若い参謀長に就任し、突撃隊を率いて果敢に戦い、負傷しながらもフランス戦線で名をあげました。戦後は、少将となって栄進を果たし、士官学校の校長に就きました。1930年には、50歳で陸軍参謀総長(大将)となって1935年に退役しましたが、独立することを決定したフィリピンに招かれて、フィリピン軍の軍事顧問に就任しました。
</p>
<p>
ところが、日米関係が悪化して1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、現役にもどって極東連合軍司令官となりましたが、日本軍の激しい攻撃にあい、フィリピンからオーストラリアに一時撤退しました。やがて島伝いに反撃に転じ、ニューギニアをへて1944年10月、フィリピンのレイテ島に上陸し、フィリピンの奪回に成功、沖縄作戦を開始しました。
</p>
<p>
1945年8月に日本が降伏すると、連合国最高司令官に任命されて厚木基地に進駐し、東京の日比谷に総司令部をおいて、日本の占領政治を担当しました。アメリカ政府の指示にしたがいながら政治犯の釈放後、戦後の日本の民主化をすすめる第1弾として「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令しました。また、経済の民主化として「農地解放」「財閥解体」「独占禁止法」を打ち出しました。
</p>
<p>
さらに、国の象徴としての天皇・戦争放棄・封建制の廃止という「マッカーサー3原則」に基づいて「日本国憲法」の草案を作成しました。これにより、マッカーサーは労働者の味方と思われましたが、1947年2月1日に共産党の呼びかけでゼネスト決行を計画したところ、日本経済を破滅においやると、GHQは中止を指令。のちに、日本共産党員や同調者を公職追放する「レッドパージ」(赤狩り)を指令しています。
</p>
<p>
1950年6月に朝鮮戦争がおこると、マッカーサーは国連軍最高司令官に任命されて戦いましたが、北朝鮮を支援する中国軍の攻勢により苦戦を強いられものの、戦争継続を強硬に主張したことでトルーマン大統領と対立、1951年4月にいっさいの職務をやめさせられました。こうして、5年半近くGHQ総司令官として日本の占領政治に君臨してきたマッカーサーは、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して、惜しまれながら帰国しました。
</p>
<p>
1952年、共和党の大統領選にかつがれましたが、大きな支持を得られずに断念。レミントンランド社の会長に就任しましたが体調をくずして1964年、84歳で亡くなりました。
</p>
<p>
<br />
「1月26日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1788年　囚人の移民&hellip;イギリスからの初めてオーストラリア移民団が、ポートジャクソン湾(現シドニー湾)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで「オーストラリアの建国記念日」となりました。
</p>
<p>
1823年　ジェンナー死去&hellip;牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケを作ったイギリスの外科医 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/jennar/index.html">ジェンナー</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1948年　帝銀事件&hellip;帝国銀行（現在の三井住友銀行）の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。
</p>
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   <title>言論界の雄・徳富蘇峰</title>
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   <published>2012-01-24T20:14:58Z</published>
   <updated>2012-01-24T22:04:07Z</updated>
   
   <summary> 今日1月25日は、明治・大正・昭和の3時代にわたってジャーナリスト・思想家・歴史家として活躍した徳富蘇峰(とくとみ そほう)が、1863年に生まれた日です。 蘇峰は、肥後藩(いまの熊本県)の郷士の長男として水俣で生れました。弟は作家の 徳冨蘆花。漢学を学んだのち、熊本洋学校に入...</summary>
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      <![CDATA[<p>
今日1月25日は、明治・大正・昭和の3時代にわたってジャーナリスト・思想家・歴史家として活躍した徳富蘇峰(とくとみ そほう)が、1863年に生まれた日です。
</p>
<p>
蘇峰は、肥後藩(いまの熊本県)の郷士の長男として水俣で生れました。弟は作家の 徳冨蘆花。漢学を学んだのち、熊本洋学校に入って西洋の学問やキリスト教に興味をよせるようになり、1876年に上京して官立の東京英語学校に入学しました。学校になじめないために京都の同志社英学校へ転入学し、創設者である<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden32-4.html">新島襄</a>に学びました。1877年に「西南戦争」が勃発すると、新聞の報道記事に感動してジャーナリストを志すようになります。1880年、学生騒動に巻きこまれて同志社を中途退学すると、ふたたび上京して新聞記者を志願するもののかなわず、帰郷して、燃えさかりはじめた自由民権運動に参加しました。
</p>
<p>
やがて自宅に、私塾「大江義塾」を開き、1886年の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて、青年への啓蒙に努めました。蘇峰は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設にわきたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目され、さまざまな講義のテキストを著わすことで、自己の思想の基本を確立していきました。
</p>
<p>
1886年の夏、『将来之日本』の原稿をたずさえて上京、田口卯吉の「経済雑誌社」から刊行されると、「将来の日本は、生産活動にたずさわる一般市民の世の中になる」と明快に説く華麗な文は、多くの若者を魅了し、論壇デビューを果たしました。そして翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を主宰すると、弟の蘆花をはじめ山路愛山や 国木田独歩らも入社しています。1890年には『国民新聞』を発刊し、その主筆となって平民主義を掲げ、「自由」「平和」「進歩」を主張して、言論界に新風をまきおこしました。ところが、日清戦争後の「三国干渉」(ロシア・ドイツ・フランス3国が、日本領有となった遼東半島を清へ返還するよう勧告してきた事件) からは、国家主義・帝国主義・皇室中心主義をとなえ、日本の海外への侵出を正当化するように変わったため、その変節が非難されるようになりました。
</p>
<p>
1904年、日露戦争がはじまると、蘇峰は『国民新聞』をあげて桂太郎戦時内閣に協力する報道をつづけたため、一時低迷をつづけた新聞発行部数も急速に伸びていきました。ところが、戦後に講和条約が成ると、これを弱腰として非難した「日比谷焼き討ち事件」、さらに1913年に桂内閣と軍部の横暴に憤慨した「大正の政変」では民衆暴動が高まり、国民新聞社は二度も焼き討ちされて、大きな被害を受けました。
</p>
<p>
以後は、ペンによる警世の思想家として力をそそぐようになり、特に1918年ころから代表作となる『近世日本国民史』を綴るようになり、この書で1937年に学士院恩賜賞をうけ、1943年には文化勲章を受章しています。1952年まで書き続け、この歴史書は50巻もの大著となっています。
</p>
<p>
敗戦後は、戦時中に軍部へ協力し大日本言論報国会の会長を務めたことから戦犯(戦争犯罪人)容疑者に指名され、公職追放にあって逗子にひきこもり、1957年、94歳で眠るように亡くなりました。
</p>
<p>
<br />
「1月25日にあった主なできごと」
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<p>
1212年　法然死去&hellip;平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden21-2.html">法然</a>が亡くなりました。
</p>
<p>
1858年　御木本幸吉誕生&hellip;「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden33-08.html">御木本幸吉</a>が生まれました。
</p>
<p>
1885年　北原白秋誕生&hellip;『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden35-10.html">北原白秋</a>が生まれました。
</p>
<p>
1907年　湯川秀樹誕生&hellip;日本で最初にノーベル賞にかがやいた理論物理学者<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yukawahideki/index.html">湯川秀樹</a>が生まれました。
</p>
<p>
1957年　志賀潔死去&hellip;赤痢菌を世界で初めて発見したことで知られる細菌学者<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden34-06.html">志賀潔</a>が亡くなりました。
</p>
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   </content>
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   <title>『くるみ割り人形』 のホフマン</title>
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   <published>2012-01-23T20:04:20Z</published>
   <updated>2012-01-23T21:55:45Z</updated>
   
   <summary> 今日1月24日は、後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られているドイツの作家ホフマンが、1776年に生まれた日です。 東プロイセンのケーニヒスベルクの法律家の家系に生まれたエルンスト・テオドール・アマデウス(モーツァルトが好きでその名を名のる)・ホフマンは、幼いころから...</summary>
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      <![CDATA[<p>
今日1月24日は、後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られているドイツの作家ホフマンが、1776年に生まれた日です。
</p>
<p>
東プロイセンのケーニヒスベルクの法律家の家系に生まれたエルンスト・テオドール・アマデウス(モーツァルトが好きでその名を名のる)・ホフマンは、幼いころからピアノや絵や読書に親しむ少年でした。親類のだれもが法律家だったため、17歳で法律を学び裁判官見習いとしてボーゼンに任命されます。ところがその地の長官をうっかり漫画に書いたため、片田舎へ追いやられてしまいました。
</p>
<p>
1804年にワルシャワに出て官吏の仕事についたホフマンは、仕事のかたわら、詩作や作曲、絵画制作などを行っていました。ところが1806年、ナポレオンの進軍によって職を失ってしまいました。しかたなくホフマンは、楽団を組織すると、その楽長としてベルリン、バンベルク、ドレスデン、ライプツィヒなどをさまよいながら指揮棒をふりました。その間劇場監督について舞台を手がけたり、オペラ『ウィンディーネ』の作曲、音楽教師、音楽評論の寄稿、肖像画家など、借金をかさねながら苦労のかぎりをつくした末に、1814年に『カロー風の幻想物語』を出版、ここにおさめられていた『黄金宝壺』が大ヒットとして、ようやく作家として認められたのでした。
</p>
<p>
同年、ベルリンの判事に復職したのち、生涯つづく裁判官と作家との二重生活を送りはじめました。1816年には、オペラ『ウィンディーネ』が王室劇場で初演されると大成功をおさめています。こうして、1822年に亡くなるまで旺盛な作家活動を続け、悪魔や魔法、ありそうもない事件やまぼろしがあらわれる『悪魔の霊液』『小夜曲集』『おす猫ムルの人生観』『ブランビラ王女』などたくさんの作品を著わしました。
</p>
<p>
また子ども向けに書いた『くるみ割り人形とねずみの王様』(マリーという少女がクリスマスプレゼントにもらった「くるみ割り人形」をめぐって、マリーの夢と現実が入りまじり、ふしぎな物語を展開します) は、チャイコフスキーの15曲からなる<a href="http://www.youtube.com/watch?v=QYanCpTyriU&amp;feature=fvwrel">バレー組曲『くるみ割り人形』</a>(ホフマンの原作をデュマが脚色したものを基にしています) として、今も世界じゅうの子どもたちに親しまれています。
</p>
<p>
<br />
「1月24日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1848年　ゴールドラッシュ&hellip;アメリカのカリフォルニア州の大工が偶然に金を発見、歴史に残るゴールドラッシュのきっかけになりました。1849年には一獲千金をねらう8万人もの人々が、西部カリフォルニアをめざしたといわれています。
</p>
<p>
1911年　幸徳秋水死去&hellip;明治時代の社会主義者で、「大逆事件」という天皇の暗殺を企てたという疑いにかけられた<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden34-08.html">幸徳秋水</a>が処刑されました。
</p>
<p>
1965年　チャーチル死去&hellip;第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮し、『大戦回顧録』の著書によってノーベル文学賞を受賞した<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/churchill/index.html">チャーチル</a>が亡くなりました。
</p>
<p>
1972年　横井庄一発見&hellip;太平洋戦争の時の日本兵・横井庄一が、グアム島で発見されました。1944年に上陸してきたアメリカ軍に追われ、島の奥地のジャングルに隠れ、自給自足のくらしを28年も送っていたのです。降伏を恥とする旧日本軍の教えを忠実に守って帰国した横井の第一声は「恥ずかしながら生きながらえて帰ってきました」でした。
</p>
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   </content>
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   <title>「儒学」 を幕府の官学とした林羅山</title>
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   <published>2012-01-22T21:36:35Z</published>
   <updated>2012-01-22T22:16:02Z</updated>
   
   <summary> 今日1月23日は、江戸時代初期に家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えて、江戸幕府の土台作りに大きな貢献をした儒学者の林羅山(はやし らざん)が、1657年に亡くなった日です。 1583年、京都に生まれた林羅山(本名・信勝 羅山は号)は、幼少の頃から読書好きな賢明な子で、13歳...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/">
      <![CDATA[<p>
今日1月23日は、江戸時代初期に家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えて、江戸幕府の土台作りに大きな貢献をした儒学者の林羅山(はやし らざん)が、1657年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1583年、京都に生まれた林羅山(本名・信勝 羅山は号)は、幼少の頃から読書好きな賢明な子で、13歳のときに京都・建仁寺に入り、仏教を学びながら寺が所蔵する大量の書物に親しみました。僧籍に入ることを勧められましたが、1597年に家へ帰ると、独学で儒学の一派である朱子学を深くまなびました。
</p>
<p>
1604年、当時もっとも著名な儒者といわれた藤原惺窩（せいか）と論争したのがきっかけで、惺窩から精神的にも、学問的にも大きな影響を受けました。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったため、1605年に羅山を <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/ieyashu/index.html">徳川家康 </a>に推せんすると、羅山の学識の高さを大いに評価した家康に、23歳の若さで、幕府の相談役として仕えることになりました。
</p>
<p>
家康の命で僧形となった羅山は、家康居城の駿府城(静岡)で儒学を教えるほか、駿府の書物庫をあずかって、のちの紅葉山文庫の整理をしました。1616年に家康が亡くなると、2代将軍秀忠に仕え、学問ばかりでなく、政治にも参加をするようになります。
</p>
<p>
1624年には、3代将軍家光の侍講となって、さらに深く幕府政治にかかわっていきました。朱子学を背景とした羅山の学説は、上下の身分の区別、礼儀を重要視して、社会秩序をしっかり維持することを目的としていました。これは、幕府にとって大変つごうのよいものだったため、羅山の弟子たちも幕府に重く用いられるようになりました。こうして羅山は、「武家諸法度」や外交文書の起草、伊勢神宮参拝典礼など多岐にわたる仕事にたずさわりました。
</p>
<p>
1630年には、家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、1632年には私塾をおこしてたくさんの門人を育てました。この私塾は、後世の昌平坂学問所の基礎となっています。こうして、羅山は知識中心の朱子学を発展させた儒学を幕府の官学として、朱子学以外は認めませんでしたが、神道は朱子学の考えとつながっているとしています。羅山はじつに博識で、学問書ばかりでなく紀行書を著すなど、文人としての活躍ぶりも多彩で、生涯に150冊もの書を著わし、歴史書としては『本朝編年録』40巻を編纂しています。これは、のちに子孫が『本朝通鑑』を完成させています。
</p>
<p>
<br />
「1月23日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1866年　寺田屋騒動&hellip;2日前に薩長同盟を締結させた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/ryouma/index.html">坂本龍馬</a> は、宿泊先の京都･寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。
</p>
<p>
1869年　薩長土肥藩の版籍奉還&hellip;諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳、<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden31-4.html">木戸孝允</a> や <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden31-2.html">大久保利通</a> らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。
</p>
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   <title>義経らにやぶれた源義仲</title>
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   <published>2012-01-19T21:51:13Z</published>
   <updated>2012-01-19T22:35:41Z</updated>
   
   <summary> 今日1月20日は、平安時代末期の源氏の武将で京を制圧するものの、いとこの源頼朝・義経らに討たれた源義仲（みなもとの よしなか）が、1184年に亡くなった日です。 義仲は、「木曽義仲」とも呼ばれています。 1154年、鎌倉幕府を開いた 源頼朝 らの父である源義朝の弟・源義賢(よし...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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      <![CDATA[<p>
今日1月20日は、平安時代末期の源氏の武将で京を制圧するものの、いとこの源頼朝・義経らに討たれた源義仲（みなもとの よしなか）が、1184年に亡くなった日です。 義仲は、「木曽義仲」とも呼ばれています。
</p>
<p>
1154年、鎌倉幕府を開いた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yoritomo/index.html">源頼朝</a> らの父である源義朝の弟・源義賢(よしかた)の次男として生まれた義仲(幼名・駒王丸)は、2歳のとき、父がおいの義平に殺されたため、信濃国(長野県)木曽山中へ逃れ、中原兼遠のひごを受けて育ちました。
</p>
<p>
1180年、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨(りょうじ)を発すると、諸国の源氏が各地で蜂起します。特にきわだったのが伊豆の頼朝と木曽の義仲でした。9月に挙兵した義仲は、父の旧領だった上野へと向かい、信濃に入りました。1181年には、木曾・佐久・上州など3千の兵を集結すると、攻め込んできた越後の豪族を打ち破ってそのまま越後に入り、信濃・越後を制圧しました。1182年には北陸に逃れてきた以仁王の遺児を助けながら西に進み、1183年5月、越中(富山県)と加賀(石川県)の国境付近の倶利伽羅(くりから)峠の戦いで、10万ともいわれる平氏の北陸追討軍を夜襲によって壊滅させました。これが有名な「くりから落とし」です。
</p>
<p>
この勝利によって勢いづいた義仲軍は、続く篠原の戦にも勝利して、破竹の勢いで京都をめざし、越前、近江に入り、7月28日京に入りました。その3日前、京の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその母建礼門院らと西国へ都落ちしました。平氏は、西国へ後白河法皇も伴うつもりでしたが、危機を察した法皇は比叡山に逃れたのち都に戻りました。そして、平氏追討の手柄に対し、義仲に高い役職と、平氏の所領だった140か所を与えました。
</p>
<p>
こうして1183年秋には、京と北陸・山陰両道をおさえた義仲、山陽・南海・西海の3道を平氏、東海・東山道2道の頼朝と、3者が天下を分けあうという情勢となりました。ところが義仲は、西国に逃れた安徳天皇にかわる皇位継承問題に口出しして、後白河法皇と対立したばかりか、義仲軍の京でのふるまいが粗暴で、暴行や略奪などを行ったために人心を失いました。そのため、公家たちの期待は鎌倉の頼朝に移りました。政略にたけた後白河法皇は、ひそかに頼朝と連絡をとりあって義仲を排除する作戦をすすめたところ、これを察した義仲は、院の御所に法皇を閉じ込めるというクーデターをおこしました。
</p>
<p>
そんな動きに対し、頼朝は弟の範頼と <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yositune/index.html">義経</a> を義仲追討に向かわせました。義経は宇治川の戦いで義仲をやぶり、近江にのがれようとするところを、瀬田で範頼軍にやぶれ、討ち死にしたのでした。後年、義仲が葬られた義仲寺に <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/basho/index.html">松尾芭蕉</a> が奇しくも葬られ、芭蕉の弟子が「木曽殿と背中あわせの寒さかな」と詠んだことはよく知られています。
</p>
<p>
<br />
「1月20日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1875年　ミレー死去&hellip;『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden10-3.html">ミレー</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1926年　ダイヤル式自動電話の設置&hellip;日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。
</p>
<p>
1947年　学校給食&hellip;太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。
</p>
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   <title>強いハガネを発明したベッセマー</title>
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   <published>2012-01-18T21:23:33Z</published>
   <updated>2012-01-18T21:34:43Z</updated>
   
   <summary> 今日1月19日は、イギリスの製鉄技術者で、鋼(ハガネ)の精錬法を発明したことで知られるベッセマーが、1813年に生まれた日です。 ヘンリー・ベッセマーは、ロンドンの北にあるチャールトン村に生まれました。父は、フランスの造幣局で鳴らした優秀な鋳造技師で、活字鋳造工場を経営していま...</summary>
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      <![CDATA[<p>
今日1月19日は、イギリスの製鉄技術者で、鋼(ハガネ)の精錬法を発明したことで知られるベッセマーが、1813年に生まれた日です。
</p>
<p>
ヘンリー・ベッセマーは、ロンドンの北にあるチャールトン村に生まれました。父は、フランスの造幣局で鳴らした優秀な鋳造技師で、活字鋳造工場を経営していました。ベッセマーは幼いころから父の工場を手伝いました。どんな機械でも、どんな手仕事にも興味をもつうち、村の水車場の機械じかけなどにも精通してしまいました。そんなベッセマーの才能を快く思った父は、わが子専用の小さな旋盤をあてがいました。ベッセマーは思いつく限りの部品を工夫しながら、機械技術に親しんでいきました。
</p>
<p>
17歳の頃に、真ちゅうを工夫した金色塗料を発明して大金を入手したのを手始めに、ベッセマーは次々と新しい発明をなしとげます。切手印刷機、簡単に溶ける合金活字鋳造器、印刷プレス器、水圧式ブレーキ、砂糖きび絞り機など、30代のなかばまでには成功した発明事業家として有名になりました。ベッセマーにとって発明は、生活するための手段であると同時に、生きがいでもありました。新しい発明を思いつくと、たとえそれが未知の分野であっても、燃えるような挑戦意欲を抑えることが出来なかったといわれています。
</p>
<p>
ベッセマーが製鉄に関わるようになったのは41歳のときでした。ロシアとトルコ・イギリス・フランス同盟軍との間で戦われたクリミア戦争が始まり、人々の目は自国の軍備に向かっていて、より性能のよい大砲が求められていました。ベッセマーは、新しい方式の大砲を考案し、イギリス陸軍局に売り込んだところ、ことわられてしまいました。しかし、フランスのナポレオン3世に気に入られ、何回か実験をくりかえしたところ、仕組みはすばらしいものの、鋳鉄だったために火薬の圧力でゆがんでしまうのが欠点でした。当時のハガネは、あまりに高価だったために実用にならなかったのです。
</p>
<p>
強い鉄鋼の必要性を感じたベッセマーは、ロンドンの仕事場にもどると、鉄鋼の大量生産の方法を研究しはじめました。試行錯誤の末、とけている鉄(銑鉄)に強い圧力をかけた空気をふきこみ、余分な炭素を燃やすことで、銑鉄がハガネになることを発見、従来の方法より圧倒的に低コストで作れる方法を見つけました。
</p>
<p>
当時のイギリスで名高い技術者レーニーは、ベッセマーに乞われて実験の見学にきたところ、その成功に感嘆しました。レーニーはすぐにイギリス科学振興会に働きかけ、ベッセマーが「ハガネの大量生産」についての演説をしたところ、世界の新聞に報道され、いちやく鉄鋼界の英雄になりました。その後、多少の失敗もありましたが、1860年、ヨークシャー地方のシーフィールドに製鋼所を建設。ハガネの製造を開始し、自分の理論の正しさを証明したのでした。1869年、事業から手をひき、晩年はいくつかの発明を楽しみながら、悠々自適の生涯を1898年に終えました。
</p>
<p>
<br />
「1月19日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1736年　ワット誕生&hellip;18世紀末頃からイギリスにおこった産業革命の原動力ともいえる、蒸気機関の改良をおしすすめた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden07-2.html">ワット</a> が生まれました。
</p>
<p>
1839年　セザンヌ誕生&hellip;ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden11-7.html">セザンヌ</a> が生まれました。
</p>
<p>
1862年　森鴎外誕生&hellip;安寿と厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』、安楽死させた罪に問題をなげかけた『高瀬舟』、ドイツで交際した女性をモデルした『舞姫』など数々の名作を著した文豪 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden33-12.html">森鴎外</a> が生まれました。
</p>
<p>
1899年　勝海舟死去&hellip;江戸幕府末期の開明的な幕臣として 坂本竜馬 ら幕末の志士を教育したり、咸臨丸で日本人だけの太平洋横断を指揮したほか、幕府側代表として西郷隆盛と会見し江戸無血開城を実現させた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/kaishu/index.html">勝海舟</a> が亡くなりました。
</p>
<p>
1969年　東大安田講堂の封鎖解除&hellip;全共闘の学生によって、半年前から占拠されていた東大安田講堂へ、8500人の機動隊が前日から出動。2日間35時間にわたる激しい攻防の末、封鎖が解除されました。
</p>
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   <title>「大原美術館」を創設した大原孫三郎 </title>
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   <published>2012-01-17T22:36:05Z</published>
   <updated>2012-01-17T23:12:28Z</updated>
   
   <summary> 今日1月18日は、倉敷紡績（クラボウ）をはじめ、電力会社、病院、銀行等さまざまな会社の社長をつとめ、「大原財閥」を築き上げた実業家の大原孫三郎（おおはら まごさぶろう）が、1943年に亡くなった日です。 1880年、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績（クラボウ）を創業した大原孝四郎...</summary>
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      <![CDATA[<p>
今日1月18日は、倉敷紡績（クラボウ）をはじめ、電力会社、病院、銀行等さまざまな会社の社長をつとめ、「大原財閥」を築き上げた実業家の大原孫三郎（おおはら まごさぶろう）が、1943年に亡くなった日です。
</p>
<p>
1880年、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績（クラボウ）を創業した大原孝四郎の3男として生まれた孫三郎は、2人の兄が相次いで夭折したため、大原家のあと取りを期待されましたが勉強ぎらいで、教師たちから金持ちのわがまま息子といわれて煙たがられる存在でした。それでも、1897年東京専門学校（後の早稲田大学）に入学しました。ところが、ほとんど講義には顔を出さずに、吉原遊郭に通い詰めて大きな借金を抱えて父親に学校を中退させられ、地元に連れもどされて謹慎処分を受けました。
</p>
<p>
謹慎中に岡山孤児院の石井十次牧師を知り、その説教と慈善活動に感銘を受けてクリスチャンになった孫三郎は、石井のスポンサーとなったばかりか、石井の死後は同孤児院の院長になっています。後の孫三郎の理想主義的行動の出発点は、石井との出会いにありました。
</p>
<p>
1888年に倉敷紡績に入社すると、工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。1802年には工場内に尋常小学校や倉敷商業補修学校（現在の倉敷商業高校）を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援しました。
</p>
<p>
1906年、女工たちの寄宿舎内で伝染病が発生し数名を死亡させた責任を取って父が辞任すると、孫三郎は倉敷紡績の社長に就任、同時に工員の労働環境改善をはかったり、人事を刷新して独裁体制をとりました。そして、会社の利益のほとんどを、日露戦争後の増加した孤児を救うため使いました。以後、第1次世界大戦がはじまった1914年には、農業研究所こしらえて農業の改善もはかりながら企業の大拡張をおこなって、紡績業界の地位を不動のものにします。
</p>
<p>
戦争が終わると、これまでの好況から反転して景気が悪化して米の値段が急上昇しました。富山県の一漁村に端を発した「米騒動」という民衆暴動が全国に広がったことで、孫三郎は社会問題を研究する必要性を感じました。そこで、1919年に大原社会問題研究所を創立させて、マルクス経済学を研究し、貧乏人のいない理想社会をめざそうと考えました。軍国主義が強化されたため大学を追われた森戸辰男、櫛田民蔵、大内兵衛らを研究所に迎い入れたために、特別高等警察(特高)からにらまれて、世間からは「アカの巣窟」と非難されながらも、労働問題の研究につくしていきました。
</p>
<p>
1921年には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所を開設、1923年倉紡中央病院（現在の倉敷中央病院）を設立して、工員ばかりでなく市民の診療も行いました。その他、中国水力電気会社（現在の中国電力）の設立、中国合同銀行（現在の中国銀行）の頭取となるなど、地元経済界の重鎮となっていきました。
</p>
<p>
さらに1930年には、児島虎次郎に収集を依頼して、ルノアール、ピカソ、グレコらの世界的に評価されている名画を収蔵する大原美術館を開設するなど、社会事業、文化事業に大きな貢献をしました。1939年に長男の大原総一郎に企業体を引き継いで引退しましたが、そのユニークな生きざまは、後世の人たちからも賞賛の声がささげられています。
</p>
<p>
<br />
「1月18日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1467年　応仁の乱&hellip;室町幕府の執権を交代で行なっていた斯波、細川と並ぶ三管領の一つである畠山家では、政長と義就のふたりが跡目争いをしていました。この日、義就の軍が政長の軍を襲い、京の町を灰にした11年にも及ぶ「応仁の乱」のキッカケとなりました。将軍 <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden23-4.html">足利義政</a> の弟義視と、子の義尚の相続争い、幕府の実権を握ろうとする細川勝元と山名宗全、それぞれを支援する全国の守護大名が入り乱れる内乱となっていきました。
</p>
<p>
1657年　明暦の大火&hellip;この日の大火事で、江戸城の天守閣をはじめ江戸市街の6割以上が焼け、10万8千人が焼死しました。本郷にある寺で振袖供養の最中に、振袖を火の中に投げこんだ瞬間におきた突風で火が広がったことから「振袖火事」ともいわれています。
</p>
<p>
1689年　モンテスキュー誕生&hellip;『法の精神』を著したフランスの法学者・啓蒙思想家で、司法・行政・立法という政治の三権分立をとなえ、アメリカ憲法や「フランス革命」に大きな影響を与えた <a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden06-10.html">モンテスキュー</a> が生まれました。
</p>
<p>
1919年　パリ(ベルサイユ)講和会議&hellip;第1次世界大戦後の講和会議が、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5か国が参加してパリで開催されました。講和条約の調印式がベルサイユ宮殿で行われたことから、ベルサイユ会議とも呼ばれています。この条約により国際連盟が成立することになりました。また莫大な賠償金を強いられたドイツは経済破綻をおこし、ナチス党がおこるきっかけとなりました。
</p>
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   <title>らくだ</title>
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   <id>tag:blog.izumishobo.co.jp,2012:/sakai//6.2643</id>
   
   <published>2012-01-16T20:38:22Z</published>
   <updated>2012-01-16T21:46:17Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[ 「おもしろ古典落語」の56回目は、『らくだ』というお笑いの一席をお楽しみください。 「くずーぃ、ぐずやぁ、おはらい&hellip;」「ぐず屋、おい、くず屋」「いけねぇ、らくださん家(ち)の前だ、向こうの道をまわりゃよかったな。&hellip;へ、へい、らくださんのお宅ですね」「...]]></summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/">
      <![CDATA[<p>
「おもしろ古典落語」の56回目は、『らくだ』というお笑いの一席をお楽しみください。
</p>
<p>
「くずーぃ、ぐずやぁ、おはらい&hellip;」「ぐず屋、おい、くず屋」「いけねぇ、らくださん家(ち)の前だ、向こうの道をまわりゃよかったな。&hellip;へ、へい、らくださんのお宅ですね」「そうだ、おめぇらくだを知ってんのか?」「へぇ、いつもくずをいただいております」「そいつは都合がいい、まぁ、入れ」「&hellip;らくださんはお留守で?」「留守じゃねぇ、死んじまった」「えっ、死んだ? そいつぁ、ありがた&hellip;いえ、お気の毒なことで&hellip;、死ぬような人じゃなかったんですが、あなたが殺したんですか?」「ばかなこというな、フグを食って当たったらしい」「ふーん、こわいもんですな」「それでだ、オレはらくだの兄貴分の半次って者だが、今おれのふところには百文もねぇ。この家のものをあらいざらい売って、葬式の金をこさえようと思うんだ。うんと奮発して買ってくんねぇ」「この家には、いただくものなんか何にもありません」「そこに土瓶や七輪があるだろ」「土瓶は底が抜けてます。七輪もこっちから見るとちゃんとしてますが、向こう側に大きな穴がありまして、3厘の値打もありません」
</p>
<p>
長屋の連中に香典を出させようと思い立った半次は、くず屋をおどして、月番のところへ行かせました。「えっ、らくだが死んだ? そいつはよかったな」「で、今兄貴分という人がきていまして、なるべく早く香典を集めて届けてくれって、こう申します」「冗談じゃねぇ、らくだなんて長屋のつきあいなんぞしたことはねぇ、月掛けだって出したことあるか、月掛けを集金にいくと、月番という月番がなぐられて帰ってくるんだ。あんなやつに香典だすやつはいねぇよ」「ここはひとつ、お出しになったほうがいいですよ。なんたって、らくださんより、もう一段も上の、ものすごい奴なんですから、何をされるかわかりません」ということで、長屋の者たちはしぶしぶいくらか包んで月番に渡し、月番は集めたものを半次に届けます。
</p>
<p>
味をしめた半次、いやがるくず屋を、今度は大家のところに行かせ、今夜通夜をするから、酒三升と肴を大皿2枚、暖かいご飯をおひつに2杯届けるようにといいわたしました。「ばかをいうんじゃない。らくだは引っ越して1年半、店賃を一度も払ってねぇんで、先月店賃を払わないうちは、ここを動かないって座り込んだんだ。すると『きっと動かねぇな』っといったかと思うと、なにか長いものを振り上げて、これでもかぁって&hellip;わしは、きもをつぶして土間へ転がり落ちたよ。命からがら表へとびだすうち、下駄をおいてきちまった。らくだのやつはあくる日、その下駄をはいて鼻歌うたって歩いてやがる。あんなずうずうしい奴が死んだって、そんなものは出せるわけねぇ」と突っぱねました。「いやだといったら、らくださんの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」といっても「おもしれぇ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てぇもんだ」と、大家は一向に動じません。
</p>
<p>
くず屋の報告を聞いて怒った半次、それじゃぁといって、くず屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運びこみました。さすがの大家もついに降参し、酒と肴と飯を届けました。横町の豆腐屋も同じ手口で脅迫し、棺桶がわりに四斗樽をぶんどってくると、くず屋は、もうご用済みと帰ろうとしますが、酒を飲んでいけといいます。仕事があるから帰してくれと頼んでも、オレの酒が飲めねえかと、すごまれて、もう一杯、もう一杯と飲まされるうち、だんだんくず屋の目がすわってきました。「おい、おめぇ、大丈夫か?　家へ帰ると68のおふくろと女房と子どもがいて、一日商売を休むと、困るんだろ?」「ばかにするねぇ、1日くらい休んだって、女房っ子をひぼしにするようなオレさまじゃねぇや。もう一杯注げ!」「おや、あべこべになっちまった、だいぶ酔っちまったじゃねぇか」「何いってやがんだ。てめぇの酒じゃねぇ。オレが死骸をかついでもらってきた酒だ、オットットトト&hellip;あぁ、うめぇ、まったく苦労させた酒だよ。もう一杯!」
</p>
<p>
完全に酒が回ったくず屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、オレの知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽりこんでくればいい」と相談がまとまり、らくだを樽に押しこんで、二人でかついで高田馬場を通り、落合の火葬場へ行きます。お近づきのしるしということで安公と三人で飲み始めましたが、いざ焼く段になると、死骸がありません。どこかへ落としてきたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返すと、一人の坊主が酔っぱらって寝こんでいます。「こんなとこに落ちてた」と桶に入れ、焼き場にもどります。火をつけると、坊主が目を覚ましました。「アチチチチ&hellip;」「やや、死人のくせに跳ねおきやがった」「やい、なんだったってこんなところへ人を入れやがった、ここはどこだ」「ここは火屋（ひや）だ」
</p>
<p>
「ふふ、冷酒（ひや）でもいいから、もう一杯くれ」
</p>
<p>
<br />
「1月17日にあった主なできごと」
</p>
<p>
1706年　フランクリン誕生&hellip;たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたばかりでなく、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家・著述家・物理学者・気象学者として多岐な分野で活躍した<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/franklin/index.html">フランクリン</a>が生まれました。
</p>
<p>
1991年　湾岸戦争勃発&hellip;アメリカ軍を主力とする多国籍軍は、クウェートに侵攻したイラク軍がこの日に設定されていた撤退期限が過ぎてもクウェートから撤退しなかったため、イラク軍拠点に攻撃を開始し、1か月あまりにおよぶ湾岸戦争が勃発しました。
</p>
<p>
1995年　阪神・淡路大震災&hellip;午前5時46分、淡路島北部を震源とする巨大地震が発生しました。神戸市・芦屋市・西宮市などで震度7の激震を記録、神戸市を中心に阪神間の人口密集地を直撃して、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となりました。自宅を失なって避難した人は30万人以上、死者6400人以上、負傷者43000人余、倒壊・損壊家屋は40万棟を越える大惨事となりました。
</p>
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   <title>「倭の五王」のひとり仁徳天皇</title>
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   <published>2012-01-15T20:41:46Z</published>
   <updated>2012-01-16T15:06:49Z</updated>
   
   <summary> 今日1月16日は、第16代天皇にあたる仁徳天皇（にんとくてんのう）が、399年に亡くなったとされる日です。 大阪府堺市に、前の方は四角でうしろの方は円く、全体の長さが486メートル、前方の幅が306メートル、そのまわりに堀をめぐらした、「前方後円墳」とよばれる日本最大の墓があり...</summary>
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      <name>Yoshio Sakai</name>
      
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今日1月16日は、第16代天皇にあたる仁徳天皇（にんとくてんのう）が、399年に亡くなったとされる日です。
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大阪府堺市に、前の方は四角でうしろの方は円く、全体の長さが486メートル、前方の幅が306メートル、そのまわりに堀をめぐらした、「前方後円墳」とよばれる日本最大の墓があります。１日に1000人ずつ働いたとしても、完成までには、4年以上かかったといわれる、仁徳天皇陵です。しかし、この陵が、まちがいなく仁徳天皇の墓であるかどうかは、まだわかっていません。それは、陵の中心部のことが明らかにされていないうえに、仁徳天皇の生まれた年や亡くなった時代が、はっきりしていないためです。
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のちの天皇の命によって書かれた『古事記』や『日本書紀』によると、仁徳天皇は第16代目の天皇にあたるといわれています。父は応神天皇、母は仲姫命(なかつひめのみこと)です。仁徳天皇は、たいへん慈悲ぶかい人だったといわれ、つぎのような話が伝わっています。
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あるとき天皇は、難波（大阪）に建てた宮殿の高いところから、人びとの暮らしをながめました。ところが、食事のしたくをする時刻だというのに、人びとの家からは煙がたちのぼっていません。これを見た天皇は、人びとは貧しくて煮たきしたものを食べることもできないのだろうと考え、それからのちの3年間、けらいに命じて人民から税をとることをやめさせたというのです。でもこれは、天皇の徳をたたえるために、のちに作られた話だといわれています。
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しかし、農業を盛んにするためには力をつくし、淀川に茨田堤(まんだのつつみ)とよばれる堤防をきずいて、河川の氾らんをふせぎ、河内（大阪）平野を広げました。また、大陸の文化を進んでとり入れることを心がけた天皇は、中国の東晋や宋の国に、何度も使者をおくったようです。そのころの中国の歴史書に、倭王がみつぎ物を持たせた使者を送ってきたことが記され、その倭王のひとりが仁徳天皇ではないかと考えられています。天皇という呼び名は6世紀ごろ生まれたもので、仁徳天皇のころは、天皇ではなく倭（日本）の国の王でした。
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堺市の陵は、天皇が亡くなってからではなく、生きているうちから作られたものですが、これは、王だった天皇が、豪族をおさえた支配者の威力を示すためのものでした。しかし、慈悲ぶかいはずの天皇が、自分の墓を作るのにどうしておおくの人民を苦しめたのか、この点は疑問のままです。
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「1月16日にあった主なできごと」
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754年 鑑真来日&hellip;中国・唐の時代の高僧である<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden19-11.html">鑑真</a>は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡海失敗で失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。
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1919年　アメリカで禁酒法&hellip;酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造･販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官も買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。
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1938年　第1次近衛声明&hellip;1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。
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1986年　梅原龍三郎死去&hellip;豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家・<a href="http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden35-14.html">梅原龍三郎</a>が亡くなりました。
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