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ビンのなかのお化け─その2

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 102]
 
昔あるところに、貧しい木こりがいました。木こりは、朝早くから夜遅くまで働いて、いくらかお金がたまると、息子に「このお金をつかって、勉強しておいで。なにかをちゃんと学んで、わしが年をとっても、しっかりと暮らしができるようにしておくれ」といいました。そこで息子は、町の学校に入りました。いっしょうけんめい勉強したため、先生にほめられるほどでした。ところが、いくつかの教科を修めないうちに、木こりの貯めたお金がなくなってしまったため、家に帰るよりほかありませんでした。

息子は、父親の手伝いをしようとしましたが、斧(おの)が一つしかありません。しかたなく、となりの家からしばらく斧を借りることにしました。翌日、息子は父親の手伝いをして、きびきび働きました。やがて昼になり、いっしょに昼食を食べようと、父親はパンを息子に渡しました。ところが息子は、「鳥の巣でも探してくるよ」といって、パンを食べながら森の中へ入っていきました。

あちこち歩きまわっているうち、とても大きなカシの木の下にやってきました。すると、どこからかくぐもった声が聞こえてきました。「出しておくれ、出しておくれ」といっているようです。「どこにいるんだ」と大声をあげると、「木の根っこにはさまってるんだ。出しておくれ!」という声がします。しばらくあたりを探すうち、ガラスびんが、小さなほらあなの中にはさまっているのを見つけました。びんの中では、カエルのようなものが、とびはねています。そこで息子は、びんのせんをあけると、中のものはぐんぐん大きくなりはじめました。大きなカシの半分ほどの大入道になったおばけは、「出してくれたお礼に、お前の首をへし折ってやるんだ」といいます。

「ちょっと待てよ。おまえさんが、ほんとうにこのちっぽけなびんの中にいたのか、ぼくには信じられない。だから、もう一度このびんの中に入れたら信じよう。そうすりゃ、おまえさんのしたいように、ぼくをするがいい」といいました。おばけはそれを聞くと、とくいそうに、みるみる小さくなって、びんの中に入ってみせました。息子はすばやくふたをしめ、もとの場所にびんを投げ出しました。「お願いです、ここから出してください」と、あわれな声がきこえます。「だめだよ、いちど、ぼくの命をねらったやつを、助けるわけにはいかないよ」「もし自由にしてくれるなら、一生こまらないものをあげます」「だめだ、おまえは、さっきのようにだますだろう」「なんにもしない。あんたは幸運をにがしてしまうよ」

これを聞いて息子は、おばけが、あんがい約束を守りそうだと感じて、もう一度びんのせんをあけてあげました。また大入道のようになったおばけは、「さぁ、お礼にこれをあげよう」といって、ばんそうこうのような小さな布を息子にわたしました。「一方の端で傷口をなでると、傷はたちまち治る。もう一方の端で金属をなでると、鉄でもはがねでも銀に変わる」といいます。息子は斧で木の皮に傷をつけ、もらった布でなでると、傷口がきれいになおったのをみて、ほんものであることがわかり、おたがいにお礼をいって別れました。

つぎに息子は、斧を布の反対側でなでてから、木に打ちつけました。すると、斧は銀に変わっていたために、たちまち曲がってしまいました。父親はびっくりして息子を叱りつけると、使えない斧を売っていくらになるか聞いてくるようにいいました。しかたなく息子は、町の鍛冶(かじ)屋のところへ行って、いくらで買ってもらえるかたずねました。斧はまるごと銀になっていたので、400ターラーになりました。鍛冶屋には、そんな大金がなかったので、そのときあった300ターラーを息子に払い、100ターラーは借りにしました。

大金を持って父親のところへ帰った息子は、斧がいくらくらいするのか聞きました。「1ターラーあれば買えるな」「じゃあ、お隣には倍の2ターラーあげてよ。お金はありあまるほど持ってるんだから」といい、父親に100ターラーをあげ、「けっしてお金には不自由させないよ」というと、「おまえは、どうして大金持ちになったのだ」とたずねました。そこで息子はおばけのことを話してきかせました。

息子はのこりのお金でまた学校へ行き、勉強を続けました。そして、おばけにもらった布で、どんな傷も治せたため、世界でいちばん有名なお医者さんになりました。

* なおこのお話は、8月27日に紹介した「ビンのなかのおばけ」(おもしろ民話集・97) の、パターンの違うもので、グリム童話に出てくるものに近いものです。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開き「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家ショパンが亡くなりました。

1887年 横浜に日本初の水道…江戸時代末に開港したものの人口の急増のために水不足となり、コレラが流行したこともあって、近代的な水道が急がれ、この日横浜で使用されるようになりました。

投稿日:2013年10月17日(木) 05:03

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)