今日10月18日は、明治時代の婦人運動家で、男女同権を主張し続けた楠瀬喜多(くすのせ きた)が、1920年に亡くなった日です。
1836年、当時の土佐で運送業を営む家に生まれた西村喜多は、幼いころから漢学を学び、町人の出身でありながら、1857年に土佐藩の剣道指南役をつとめる楠瀬実と結婚、剣道や薙刀(なぎなた)などを修め、女丈夫(じょじょうふ=女傑)として知られるようになりました。ところが1874年に夫が亡くなり、子どもがなかったため、喜多が戸主として楠瀬家を相続しました。その後、地元出身の政治家板垣退助ら立志社の人たちと交わるようになって、自由民権思想にふれました。
1878年、高知で初めての県区会議員選挙が行われたとき、女性であることを理由に投票が認められませんでした。当時の府県会規則には、「選挙資格は、満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者」と定められていました。しかし、府県会の下部組織である区町村会については全国的な統一基準が設けられていませんでした。喜多は 「本来義務と権利は両立するのがものの道理、戸主として納税しているのにもかかわらず、女性であるだけで、選挙権がないのはおかしい」と抗議して、税金の納付を拒否して、高知県庁へ抗議文を提出しました。 これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙の大坂日報や東京日日新聞などでも報道されました。
高知県側も喜多の要求を拒否したため、内務省にまで意見書を提出しましたが、この選挙での投票は拒否されてしまいました。この行動は、自由民権運動と結びつき、地方自治の気運も高まって、1880年9月に政府より区町村会法が発布され、区町村会選挙規則制定権が各区町村会に認められるに至りました。高知県上町町会の3か月にわたる抗議行動に県令もついに折れ、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立、隣の小高坂村でも同様の条項が実現しました。当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけで、 高知県の上町・小高坂村の動きは世界で2番目に女性参政権を実現したものでした。しかし、それも長く続かず、1884年の区町村会法の改正によって、参政権は男性のみと規定されてしまいました。
その後も自由民権運動に参加して、演説会などで弁士として自分の意見を堂々とのべるなど、女性解放運動を続けたことで、楠瀬喜多の名は「民権ばあさん」として全国的に知れわたりました。晩年は、家財をなげうって盲唖学校の経営にあたりましたが、大正デモクラシーが叫ばれる最中に、貧民窟で84年の生涯をさみしく閉じました。
「10月18日にあった主なできごと」
1866年 シーボルト死去…江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが亡くなりました。シーボルトは、すぐれた西洋医学を広めたものの、1829年に帰国の際、禁じられた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、江戸幕府から国外追放を申し渡されました。(シーボルト事件)
1881年 日本初の政党…国会開設をを求めていた自由民権派は、板垣退助を党首に選び、日本初の全国組織による政党「自由党」が誕生しました。
1931年 エジソン死去…映画、レコード、電信機、電話機、電球、蓄電池など、生涯におよそ1300もの発明をしたアメリカの発明家・事業家のエジソンが亡くなりました。