今日10月21日は、江戸時代後期の絵師で、わが国初の銅版画を作り、地動説を広めるなど思想家・科学者としてもユニークな活躍をした司馬江漢(しば こうかん)が、1818年に亡くなった日です。
1747年、江戸・四谷の町家に生まれた司馬江漢(本名・安藤峻)は、幼いころから絵をかくことが好きで、1761年に父が亡くなったのを機に、狩野派の狩野美信の門に入りました。しかし次第に狩野派の形式的な画法にあきたらず、19歳のころには鈴木春信に学んで浮世絵を描き、1770年に春信が亡くなると、鈴木春重の名で春信の美人画とうり二つの美人画を描きました。
25歳のころに江漢は、エレキテル(摩擦起電機)の平賀源内と知り合い、源内の紹介で宋紫石の門に入って中国絵画の影響をうけた南蘋(なんびん)派の写生画法を吸収したり、1781年には蘭学者の前野良沢の門に入り、1783年に源内、良沢、大槻玄沢らの協力をえて、わが国初となる銅版画を制作することに成功しました。これは、源内らの所有していたオランダ語の百科事典や「動物図譜」などから、銅版画技術を独学で身につけたといわれています。
源内らとの交遊によって、オランダ文明の深さを知った江漢は、自作のたくさんの銅版画や油絵を持って、1788年長崎・平戸への旅に出ました。それは人々に、得意の銅版画をのぞき眼鏡でのぞかせ、地動説を説く旅でしたが、出島で見た西洋文明に驚き、貿易の必要なことをさとり、そのためには「天文・地理学を深く学ばねばならない」という決意につながる旅でもありました。この旅の印象は、のちに『西遊日記』に著しています。
しかし、ちょうどその前年に松平定信による「寛政の改革」がはじまって、「朱子学」以外の学問が禁止されたことで、江漢の外国と貿易すべきといった考えは幕府の政策に反するとされました。また、「上は天皇・将軍、下は士農工商、ものごいに至るまで、みな同じ人間」と説く江漢の平等思想は、危険思想の持ち主と取り締まりの対象とされてしまいました。それでも、1789年には「銅板天球全図」などを描いて、地動説をとく科学者として活躍をしました。
幕府の蘭学への圧力がさらに強まると、江漢は自画像入りの死亡通知書を配り、墓を建てて世の交わりを絶って、『独笑妄言』『無言道人筆記』などの著作にはげみました。1812年に描いた「富士の図の連作」は、和洋の画法が見事に融合された傑作といわれています、しかしその6年後、ユニークな72年の生涯を閉じたのでした。
「10月21日にあった主なできごと」
1520年 マゼラン海峡発見…スペイン王の協力を得て、西回りで東洋への航路をめざしたポルトガルの探検家マゼランは、出発からすでに1年が経過していました。そしてこの日、南アメリカ大陸の南端に海峡(マゼラン海峡)を発見、7日後の28日に南太平洋に到達しました。マゼランは、翌年3月にフィリピンで原住民の襲撃にあって死亡。9月に乗組員が世界一周を終えてスペインに到着したときは、5隻の船は1隻に、256名の乗組員はわずか18名になっていました。
1684年 徳川吉宗誕生…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が生まれました。
1805年 トラファルガーの海戦…スペインのトラファルガー岬の沖で、ネルソン率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊に勝利しました。しかし、旗艦ビクトリア号で指揮していたネルソンは、狙撃されて死亡しました。
1871年 志賀直哉死去…長編小説「暗夜行路」などを著し、武者小路実篤とともに「白樺派」を代表する作家の志賀直哉が亡くなりました。