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「美容界のパイオニア」 山野愛子

今日7月31日は、美容師の育成と社会的地位向上に生涯をかけたヤマノグループ創始者の山野愛子(やまの あいこ)が、1995年に亡くなった日です。

1909年、東京・向島の洋食屋の一人娘として育った山野愛子が、自立を考えるようになったのには、愛人の家に入りびたる父の存在がありました。関東大震災で店を失った母は、髪結いになりたいという愛子の夢に賭けようと、焼け残った店の厨房道具を売り払い、その資金で、上野に出来たばかりの美容学校に愛子を入学させました。母の頭を実験台に、日本髪、洋髪の訓練をし、美顔術から花嫁衣裳の着付けまでを夢中で学んだ愛子は、わずか半年でマスターすると、焼け跡の一角に「松の家」を開業し、花街の芸者らを相手に仕事を始めました。持ち前の腕と巧みな話術ですこしずつお客を集めはじめました。

やがて洋装が普及しだすと、愛子は、アイロンごてを使って仕上げるマーセルウエーブに注目。すぐさま、この技術を習得すると、1925年「美容の殿堂・山野美粧室」の看板をかかげ、モダンな建物と日本初のパーマを売りにした店は、「お客を断る髪結い」といわれるほど大繁盛しました。

まもなく、東京の街にアメリカで開発されたパーマネントが登場すると、養子として結婚した逓信省に勤める夫治一は役人を辞め、退職金で、愛子にパーマの機械をプレゼント。さらに、電気主任技術者の資格を取得すると、中古のパーマ機を分解してその構造を調べ、国産パーマ機を開発しました。愛子と治一は、美容院経営のほか、1934年には山野美容講習所を開設し、それまで洋髪の手法を知らなかった髪結いたちにパーマ機を売り、合わせてその技術も教えることを始めました。ところが、太平洋戦争がはじまると、電髪と呼ぶように強制されたパーマはやがて禁止となり、パーマ機も軍に供出せざるを得なくなりました。さらに空襲で店を破壊された愛子は、母まで亡くしてしまいました。

戦後、一からのスタートとなった愛子でしたが、1949年に山野高等美容学校を開校すると、同年、治一の努力もあって理美容師法が制定されたことで、美容師の社会的地位が大きく向上しました。その後はラジオやテレビに出演したり、「山野愛子ビューティブック」などの出版や、1961年ロサンゼルスにヤマノ・ビューティカレッジを開設して海外でのショーも活発に行い、晩年の1992年には、山野美容芸術短期大学を設立して初代学長に就任しています。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著した作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。
投稿日:2014年07月31日(木) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)