今日12月19日は、「世界のソニー」を盛田昭夫とともに創りあげ、そのかたわら「幼児開発協会」を設立して幼児教育の大切さを普及させた井深大(いぶか まさる)が、1997年に亡くなった日です。
1908年、今の栃木県日光市に科学技師者の子として生まれた井深大でしたが、2歳の時に父が亡くなったため、両親の実家のある愛知県安城市や東京に移り住みました。幼いころから、祖父や母から父親がいかに優れた科学者だったかを聞かされ、小学時代から自転車を分解したり電信機をこしらえたりするなど、探求心旺盛な少年に成長しました。やがて再婚した母の嫁ぎ先の神戸市に転居し、神戸第一中学のころはアマチュア無線に夢中になり、早稲田第一高等学院を経て、早稲田大理工学部に入学すると、さまざまな奇抜な発明をして有名になりました。とくに「走るネオン」は、1933年のパリ万博で優秀発明賞を受賞するほどでした。
卒業後は、写真化学研究所や日本光音工業で研究職につき、日本測定器(株)を立ち上げました。同社が軍需電子機器の開発を行っていた会社だったことで、戦時中に海軍技術中尉として熱線誘導兵器を開発中の盛田昭夫と知りあいました。終戦まもなく、疎開先の長野県須坂町から上京すると、1945年10月に日本橋に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げ、翌年そのユニークな活動ぶりが朝日新聞に掲載されると、その記事が盛田の目にとまって再会をはたし、同年5月「東京通信工業」(のちのソニー)を設立、井深が専務(技術担当)、盛田が常務(営業担当)となって社員20数人の会社を創業させました。
1951年に日本初のテープレコーダー発売にはじまり、トランジスターラジオ(1955年)、トランジスターテレビ(1961年)、家庭用ビデオテープレコーダー(1964年)、ウォークマン(1979年)など、これまでにない独自の技術の開発に挑戦して次々に革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長させたことはよく知られています。
いっぽう井深は、次女が障害児として生まれたのを機に幼児教育の大切さを痛感、1969年「幼児開発協会」を設立し、自らその理事長になりました。そしてその思いを、1971年に『幼稚園では遅すぎる』に著し、つぎのように記しています。
「母親の役目は何にもまさる貴重なものです。母親こそ子どもをどんな人間にでも育てることができます。言葉をかえれば母親は偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。そして何よりもすぐれた教育者であってほしいものです。母親は子どもを授かった瞬間からその子の人間形成にしかっりした目的意識を持ち、できるだけの環境を整えて子育てを実行することが大切なことだといえましょう。次の世代を担って立つ子どもたちがすぐれた人材に育つよう、世の中の母親一人ひとりに胎児から始まっている幼児教育の重要性をよく知ってほしいと思います……」
その理論は、国内ばかりでなく海外でも高い評価をえて、その後『0歳からの母親作戦』などを著し、現役を退いたあとも、亡くなるまで教育問題に関心をいだき続けました。
なお、次女がりっぱに成長した1978年、井深は大分県に知的障害者や身体障害者が働ける工場「ソニー太陽」を建設しました。その食堂で働くようになった次女でしたが、井深は娘を特別扱いはせず、その工場に働く一人の労働者として、見守り続けました。ある時井深は、数もかぞえられないわが子が、みんなの食事の世話をてきぱきとこなしている姿を見た時、娘がわいく、そして誇らしいと思った、と語ったということです。
なお、井深が1970年代に開発した、幼児用の英語教材「トーキングカード」は、当時としては画期的なものでした。子どもたちの好きなカード形式で、機械の溝に通すだけで、ネイティブの音声が再生されるため、幼児でも、簡単に楽しく英語に親しめるというのが人気の理由でした。
「12月19日にあった主なできごと」
1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣家を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけました。その後、約束の外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼしました。
1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。