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『エロシェンコ像』 の中村彝

今日12月24日は、大正期に活躍した洋画家で、『エロシェンコ像』『田中館博士の肖像』などの肖像、『女』『少女裸像』の連作などで知られる中村彝(なかむら つね)が、1924年に亡くなった日です。

1887年、今の水戸市に旧下級武士の子として5人兄弟の末子に生まれた中村彝は、1歳のときに父を亡くしたことから、家計は職業軍人となった長兄に依存することになりました。11歳のときに母親も亡くしたことから、1900年に一家は長兄の住む東京に移住しました。彝は幼いころから軍人になるように教育され、早稲田中学を卒業後は、陸軍幼年学校に入学しました。ところが長兄が日露戦争で戦死し、彝は肺結核を病んで学校を中退し、千葉の館山で転地療養しながら水彩スケッチを始めました。これが画家への道につながることになりました。

各地で闘病しながらスケッチの修行をかさねるうち、画集で知ったレンブラントにあこがれ、洋画家になる決心をかためました。1906年に黒田清輝の白馬研究所に入るもののものたりず、翌年デッサンを重視する太平洋画家研究所に学びました。そして1909年、第3回文展(文部省美術展覧会)に初入選をはたすと、翌年には同展で『海辺の村』が3等賞となりました。このころ、パリから帰国した彫刻家の荻原碌山と知り合い、ロダンを紹介されて強い衝撃を受けました。またルノアールの画集に刺激されて描いた1911年に発表した『女』も連続3等賞をとり、技法ばかりでなく、女性の官能美に惹きつけられるようになったようです。

いっぽう、碌山を通して新宿中村屋の経営者相馬愛蔵と黒光夫妻を紹介され、その援助を受けるようになり、碌山亡き後は、中村屋の裏にある碌山が使用していた画室に住むことになりました。そして、1911年〜14年にかけて、相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像を数点描きました。当時俊子はミッションスクールに在学中で、世間の噂が騒がしくなったことや、結核に苦しむ彝が俊子に求婚するものの夫妻に反対され、この失恋で狂気のように煩悶することになりました。

1916年、新宿下落合にアトリエを構え、1920年には彝の代表作『エロシェンコ像』(東京国立近代美術館)を第2回帝展で発表、この作品は肖像画の傑作と高く評価され、重要文化財となっています。エロシェンコはロシアの盲目の童話作家・詩人で、アジア各地を放浪した後、新宿中村屋の世話になっていました。

ところが1921年、彝の病状が悪化し、37歳の若さで亡くなりました。


「12月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した「最後の元老」といわれる西園寺公望が亡くなりました。 

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を行いました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。
投稿日:2014年12月24日(水) 05:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)