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「日本主義者」 平沼騏一郎

今日8月22日は、司法の官僚政治家として検事総長、大審院長を歴任後、右翼団体「国本社」を結成して政界の黒幕的存在となり、内閣総理大臣も務めた平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)が、1952年に亡くなった日です。

1867年、美作国(岡山県)津山藩士の子として津山城下に生まれた平沼騏一郎は、1872年に上京して同郷の洋学者箕作秋坪が主宰する三叉(さんさ)学舎で英語や算術を学び、大学予備門を経て1888年帝国大学法学部を卒業、司法省に入りました。

順調に出世し、注目されたのは1910年におきた「大逆事件」のとき、今の最高裁にあたる大審院検事として裁判の総指揮にあたったときです。この事件(幸徳事件)は、明治天皇の爆殺を計画していたという理由で26名の社会主義者が逮捕され、翌年幸徳秋水ら12名が死刑となりましたが、政府主導で社会主義者根絶をねらったねつ造事件といわれています。 以後の平沼は、1912年検事総長、1922年大審院長をへて、1923年には第2次山本権兵衛内閣で司法大臣となって、司法界の第一人者にのぼりつめました。

1924年には、摂政(昭和天皇)狙撃未遂事件(虎ノ門事件)に大きな衝撃を受けて、右翼団体「国本社」を結成しました。軍人、財界人、官僚、学者などを主な会員とした組織で、社会主義運動の高まりに対抗したものでしたが、まさに「日本ファシズムの総本山」ともいえる団体になっていきました。会長の平沼は、しだいに政界の黒幕的な存在となり、1936年に枢密院(重要な国務につき天皇の相談に答える合議制機関)の議長に任ぜられたのを機に会長をやめるまで続きました。

1939年1月には、第35代内閣総理大臣となって日独伊三国同盟の推進と戦時体制の強化をはかりますが、満州と外モンゴルの国境に近いノモンハンで日ソ両軍が武力衝突して交戦中(ノモンハン事件)に、日本と防共協定を結んでいたドイツが、ソ連と不可侵条約を結んだことで「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残し、わずか7か月で総辞職しました。太平洋戦争の末期に、近衛文麿、岡田啓介、若槻礼次郎らと東条英機批判派として戦時下の重臣会議をリードし、ポツダム宣言受諾への道筋をこしらえたことは評価されています。

敗戦後の1945年12月、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定されて巣鴨刑務所に収監され、1948年に終身禁固刑の判決を受け、服役中に病死しました。徹底した国体擁護論者、日本主義者としての生涯でした。


「8月22日にあった主なできごと」

1358年 足利義満誕生…室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満が生れました。

1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してから、じょじょに植民地化していました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。

1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家の島崎藤村が亡くなりました。

1981年 向田邦子死去…『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』などのテレビドラマ脚本家、『父の詫び状』などのエッセイスト、作家としても活躍した向田邦子が取材中、台湾・遠東航空機墜落事故で亡くなった日です。
投稿日:2014年08月22日(金) 05:33

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)