今日10月22日は、大著『歴史の研究』をはじめ『試練に立つ文明』『一歴史家の宗教観』『世界と西欧』など、独自の歴史観に基づく多くの著書をのこしたイギリスの歴史学者・トインビーが、1975年に亡くなった日です。
1889年、医師の父、歴史家の母の子としてロンドン生まれたアーノルド・J・トインビーは、9歳のとき、母にすすめられてエジプトやバビロニアについての本を読み、歴史家になる決意をしたといわれています。オックスフォード大学で古代史を学び、1911年に卒業すると、母校で講師をつとめたあと、第1次世界大戦がはじまったことで、外務省の情報部に務めました。
大戦後のパリ講和会議に外交官として出席してから公務をしりぞき、1919年にロンドン大学でギリシャ語とギリシャ史の教授となり、1924年には大学を退いて王立国際問題研究所の主任研究員となって、最新の国際情報を取りあつかう「国際問題研究」の編集・執筆にあたりました。トインビーの現代世界の動きを分析する鋭い指摘が定評をえたことで、1929年から『歴史の研究』の執筆にとりかかりました。
この大著は、世界史上に盛衰した21の文明を詳細に分析し、西欧文明が危機に直面していることを警鐘するスケールの大きな文明批評でした。1961年に全12巻が完成するまでには、第2次世界大戦をはさんで25年かかりましたが、前半の6巻が1冊にまとめられ、1946年にアメリカで出版されると、世界的な大反響となりました。
トインビーは、「エジプト、メソポタミア、中国など、どんなに高度に発達した文明でも、いつか必ず内部的にこわれて没落する」といいます。文明は最初は小さな異端的集団から発生し、次第に巨大化して一つの文明圏を作りだすこと。最初のころは創造力にあふれ、人々の生活は活気に満ちたものになります。トインビーはこれを「挑戦と応戦」といい、このことをキリスト教的に解釈して、神は人間に試練として「挑戦」を与え、人はそれに「応戦」して創造力を発揮します。ところが、やがて慢心によるマンネリ化が生まれ、欠乏は創造の原動力であるのに対し、満腹は怠惰を生み、創造力をそいで行く。こうして、文明没落の萌芽が現れると分析します。ペロポネソス戦争におけるアテネと、第一次世界大戦におけるヨーロッパ文明に与えた影響との間に類似性があること、現代人が経験していることは、すでにずっと昔にあったことのくりかえしであり「歴史は現在に生きている」ことを気づかせてくれます。
トインビーのこうした独自の分析は、『試練に立つ文明』『一歴史家の宗教観』『世界と西欧』などたくさんの著書にもあらわれ、現代文明の行方を気づかいながら86年の生涯を閉じました。なお、トインビーは、1929年、1956年、1967年の3回日本を訪れています。1967年に訪日したときは、私が大学を卒業後、社会思想社に入社した翌年のことで、同社の20周年記念出版として「トインビー著作集」(全8巻)を刊行、パンフレットづくりから、講演会のバックアップ、新聞・雑誌の広告宣伝などをひとりで担当したことを、なつかしく思い出します。
「10月22日にあった主なできごと」
794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。
1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。
1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。