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おいとけ堀

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 96]

むかし、あるところに大きな堀(ほり)があって、こいやふななんかがたくさん泳いでいます。つり糸をたらせば、いくらでも釣(つ)れるのです。ところが、そこで釣りをした人が帰ろうとすると、お堀の中から「おいとけ〜」という気味の悪い声が聞こえるので、びっくりした人たちは、魚をほうりなげて帰ってしまいます。それでも、魚を持って帰ろうとする人がいると、その声はだんだん大きくなって「おいとけっ!」と、おどすような声になるので、たいていの人は、釣った魚もつりざおさえも、ほっぽリ投げて逃げ出しました。そのため、その近くに住む人たちは、この堀を「おいとけ堀」とよぶようになりました。

このうわさを聞きつけた、ある豪傑(ごうけつ)とあだ名される気の強いな若者が、「わしは、どんなに『おいとけっ!』といわれようが、持って帰ってやるぞ」と、仲間たちやおかみさんに、いせいのいい啖呵(たんか)をきって、「おいとけ堀」へ、いさんででかけていきました。

さっそく釣り糸をたれると、釣れるわ、釣れるわ、わずかのあいだに、持ってきた入れものがいっぱいになりました。まもなく暗くなりはじめ、冷たい風も吹いてきました。そこで、いよいよ帰ろうと立ち上がったときです。あの「おいとけ〜」という気味の悪い声が聞こえてきました。若者は耳をふさぎ、「釣った魚をおいてけるか」とさけびながら、死にものぐるいでかけだしました。若者を追いかけるように「おいとけっ!」「おいとけっ!」というどなり声が聞こえます。それでもようやく、声が聞こえないところまで逃げることができました。

ところがその時です。むこうのほうから、「カランコロン」と下駄の音が聞こえてきます。はっと若者が身構えたとき、柳の木のかげからあらわれたのは、それはそれは美しい女の人でした。女の人は、「その魚を売ってくださいませんか?」といいます。でも若者は、「売りものじゃない。みんなに見せるまでは、だれにもわたさない」といってことわりました。すると女は「これでもかい?」といってツルリと手で顔をなでると、なんと「のっぺらぼう」です。おどろいた若者は、せっかくの魚をほうり投げて、いちもくさんに逃げだしました。

そしてたどり着いたのが、そばの屋台。「お、おやじさん、水をくれ! 出たんだ、出たんだよ、あれが…」「あれってなんですか。でも、もしかしたら、こんなやつじゃありませんでしたか?」うしろをむいていたそば屋のおやじが、くるりとこちらを向きました。なんと、ふりむいたそば屋も「のっぺらぼう」。「ひゃーっ」さすがの豪傑な若者も、腰をぬかしてしまいました。

なんとか、はうように家に着いた若者は、「どうしたんです、おまえさん」と、おかみさんが聞くので、若者はいま自分の身に起きたことを、あえぎながら話して聞かせました。話を聞き終えたおかみさんは、「すると、おまえさんの見たのっぺらぼうというのは、こんなんじゃなかったのかい?」と顔をひとなですると、なんと女房までが「のっぺらぼう」。もう、わけがわからなくなった若者は、あたりをはいまわりながら逃げ出し、気絶してしまいました。

そこは、あの美しい女と出あった、お堀ばたの柳の木のたもとでした。           


「8月20日にあった主なできごと」

1241年 藤原定家死去…「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人の藤原定家が亡くなりました。

1839年 高杉晋作誕生…吉田松陰の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士の高杉晋作が生まれました。

1988年 イラ・イラ戦争停戦…1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えたといわれています。

投稿日:2013年08月20日(火) 05:27

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)