児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  「国民的歌手」 藤山一郎

「国民的歌手」 藤山一郎

今日8月21日は、『丘を越えて』『青い山脈』『長崎の鐘』などたくさんの歌をヒットさせ、正統派の流行歌手・指揮者として活躍、「国民栄誉賞」を受賞した藤山一郎(ふじやま いちろう)が、1993年に亡くなった日です。

1911年、東京・日本橋にあった繊維問屋の番頭の子として生まれた藤山一郎(本名・増永丈夫)は、めぐまれた環境に育てられ、子どものころからピアノを学び、小学生時代には童謡のレコーディングをするほどでした。慶応普通部をへて、1929年に東京音楽学校予科声楽部(後の東京芸大)に入学、1931年には本科にすすみ、本格的な声楽技術・歌唱法により、学内随一のハイレベルなオペラを披露するなど、順風満帆の学生生活を送っていました。

ところが、世界恐慌のあおりを受けて実家の経営がいきづまって廃業、しかたなく「藤山一郎」の名で、1931年から32年にかけておよそ40曲もの流行歌を吹きこんで家計を助けました。とくに古賀政男が作曲した『酒は涙か溜息か』は、100万枚をこえる大ヒット、つづいて発売された『丘を越えて』もヒットして、藤山と古賀は一気にスターダムにのし上がりました。

しかし、当時、在学生が商業的な演奏・歌唱活動をすることが禁止されていたため、それが学校当局にみつかり、藤山は退学処分をいいわたされてしまいました。これに対し、藤山の能力を高く評価したドイツ人作曲家プリングスハイムや、慶応普通部時代から藤山をよく知っている弘田龍太郎らが、藤山の学業成績の優秀さ、アルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることなどを理由に擁護してくれたことで、今後のレコード吹込禁止と停学1か月の処分に落ち着きました。

1933年、同校を首席で卒業した藤山は、いよいよ本格的な活動を開始し、『影を慕いて』『東京ラプソディ』『男の純情』などをヒットさせました。1937年に盧溝橋事件が起こったのをきっかけに、国民精神総動員を打ち出した政府は、戦意を高揚させる曲の発売を奨励したことで、藤山は、『愛国行進曲』などを吹込んだりもしました。また、1941年の太平洋戦争開戦後は、南方で戦う兵士たちに娯楽を与えるための「南方慰問団」に加わり、ボルネオ島や小スンダ列島などを中心に慰問活動をつづけ、ジャワ島で敗戦を知ったそうです。藤山にとっては、音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたい、ヨーロッパ諸国の植民地であった場所へ行けばヨーロッパの文化にふれることができるかもしれないという思いが強かった、とのちに語っています。

戦後、歌手活動を再開した藤山は、『長崎の鐘』につづき、『青い山脈』を大ヒットさせました。とくに『青い山脈』は、世代を問わず長い間支持されつづけ、発売から40年たった1989年、NHKが放送した『昭和の歌・心に残る200』で第1位となったことは、私もしっかりおぼえています。

なお藤山は、NHKの「紅白歌合戦」に、1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として連続出演しています。また、1992年5月に、「国民栄誉賞」を受賞しました。「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓し、国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」という受賞理由は、芸術家としての人生を約束されながら、大衆音楽の世界に生きた藤山にふさわしいものといってよいでしょう。


「8月21日にあった主なできごと」

1862年 生麦事件…今の横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩の島津久光一行の前をイギリス人が乗馬のまま横切ったことで、一部の藩士が4人を殺傷。これが原因で、翌年8月に薩英戦争がおこりました。

1911年 「モナリザ」盗難…パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。

投稿日:2013年08月21日(水) 05:39

 <  前の記事 おいとけ堀  |  トップページ  |  次の記事 今に生きる向田邦子  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3148

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)