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人権を守りぬいた正木ひろし

今日12月6日は、戦前から軍国主義批判をくりひろげ、戦後は多くの反権力裁判やえん罪裁判にかかわった弁護士の正木(まさき)ひろしが、1975年に亡くなった日です。

1896年、現在の東京都墨田区に生まれた正木ひろしは、旧制八高(名古屋)、旧制七高(鹿児島)を経て、1920年に東京帝国大学法学部に入学しました。在学中から親の世話にならないようにと、特別な許可をえて千葉・佐倉中学や、長野・飯田中学の英語教員として勤務しながら大学を卒業すると、経済記者をへて、1927年に東京・麹町に弁護士事務所を開業しました。民事訴訟を中心に、仕事を順調にすすめました。

1937年に正木は、個人月刊誌「近きより」を発刊しました。当初は、仕事に関連する「法律問答」の記事など、雑文を掲載していましたが、1939年4月に1か月にわたる中国旅行中、日本軍将兵が中国人を抑圧する光景を目にしたことから、「近きより」の内容を転換し、戦争や軍部の横暴を批判するようになりました。そのため旅行記の号は発禁の対象となったのをはじめ、たび重なる廃刊要請にもこれを無視して、時の首相東条英機への厳しい批判など、日本の行く末を憂える論調をくりひろげました。

不法なことは絶対に許さない性格の正木は、1944年警察官が拷問して被疑者を死亡させた事件の弁護を引き受け、事実をたしかめるために死体を墓から掘り出して頭部を切断して持ちかえり、暴行の証拠をしめしたりしました。これは警察当局を弾劾した「首なし事件」として有名です (警察官は1955年に有罪確定)。「近きより」はほぼ月刊を維持して、1949年まで発行されました。雑誌への寄稿者には長谷川如是閑、内田百閨A武者小路実篤らがいるほか、読後感想を寄せた購読者には坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、宇垣一成、小林一三らの名があり、正木の交友関係の広さがわかります。

戦後の正木は、人権を守るための弁護活動を行い、無実にもかかわらず有罪の判決を受けているといわれた「三鷹事件」や「八海(やかい)事件」「観音堂事件」「菅生事件」など、えん罪事件の弁護を担当し、反権力派弁護士として幅広い活動を続けました。とくに、1951年に山口県でおきた殺人事件「八海事件」に関しては、第一次控訴審判決後から被告人らの無罪が確定した第三次上告審までを詳細につづった『裁判官』を1953年に著しました。この本はベストセラーになり、1956年に『真昼の暗黒』(今井正監督・橋本忍脚本)のタイトルで映画化されたばかりか、この作品は、「キネマ旬報」日本映画監督賞・ベストテン第1位、「毎日映画コンクール」日本映画賞・脚本賞、「ブルーリボン賞」作品賞・脚本賞・ベストテン第1位など、1956年の映画賞を総ナメにしています。

1955年の「丸正事件」では、上告審から弁護を担当しましたが、1960年の最高裁判所による有罪確定直後に、判決確定者以外の者を真犯人であると名ざしする『告発 犯人は別にいる』を共著で出版しました。これによって、翌年に名誉毀損罪で起訴された正木は、同刑事裁判で一審、控訴審とも有罪判決を受け、その上告中に亡くなってしまいました。


「12月6日にあった主なできごと」

1700年 徳川光圀死去…徳川家康の孫で、「水戸黄門」の名でしたしまれた第2代水戸藩主の徳川光圀が亡くなりました。

1839年 水野忠邦の老中就任…浜松藩主だった水野忠邦が老中筆頭となりました。11代将軍家斉が亡くなると、忠邦は幕政改革「天保の改革」を行ないました。側近たちを退け、商業を独占する「株仲間」の解散、ぜいたくの禁止など、あまりに厳しい改革に民心は離れ、成功とはほど遠いものに終わりました。

投稿日:2013年12月06日(金) 05:50

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)