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ウイリアム・テル

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 84]

むかしスイスの国は、おとなりのオーストリアという国に支配されていました。オーストリア皇帝の命令を受けた知事がスイスをおさめ、重い税金を取り立てて、税金を払えない村人からは穀物を、穀物がなければ着ているものまで持っていくほどでした。

でも、勇気のある人たちは、どうにかしてスイスの独立をかちとろうと、ひそかに仲間を集め、立ちあがる機会をねらっていました。そんな動きを知った皇帝は、ゲスラーというお気に入りの男を、スイスの中央にある2つの州の知事にしました。そこは、独立の動きのもっともさかんな地方でした。ゲスラーは、血も涙もない残忍な男で、スイス人にオーストリア皇帝にはむかう気持ちをすてさせようと考えました。そのひとつが、アルトルフという町の広場の真ん中に、長い棒を立ててその先に皇帝の帽子をかかげ、棒の横の立て札に、こんなことを書いたのです。

『この帽子は、オーストリア皇帝の帽子である。この広場を通る者は、必ずおじぎをしなくてはならない。この命令にそむく者は、ただちに死刑にする』──と。町の人たちは、「ばかにするな!」とふんがいしましたが、死刑にされたらたまりません。ぶつぶついいながらも、おじぎをせざるをえませんでした。

そんなある日のことです。ウイリアム・テルという猟師が、6歳になる息子を連れて広場を通りかかりました。テルは、弓矢にかけてはだれにも負けない腕の持ち主で、いつかスイスの独立を取りもどそうと思っている人たちのひとりでした。そのため、テルは、帽子と立て札を見ても、(この国はスイスだ。オーストリア皇帝の帽子に、おじぎをする必要などない) と、そのまま通り過ぎようとしました。

「まてーっ、ふとどき者め」たちまち、見張りの兵士に見つかって、ゲスラーの前に連れて行かれました。「おまえが、弓矢の名人といわれるウイリアム・テルか。まさかおまえは、あの立て札を読めなかったわけではあるまい」テルは、ゲスラーをにらみつけたままでした。「なぜ、おまえは皇帝の帽子に、おじぎをしない。役人は、おまえが立て札を見て、あざ笑ったといっておる」「そんなばかな命令など、聞く必要などない。スイス人にはスイス人の誇りがある」「何っ!?」「おれは、死刑をおそれて、こころにもないふるまいをするような、ふぬけじゃない」「わかった! きさまを、すぐに死刑にしてやる。……いや、待てよ」ゲスラーは、テルのそばにいるテルの息子に気がついて、意地の悪い笑いをうかべました。

「死刑は許してやろう。その代わり、そこにいる息子の頭の上にリンゴを乗せて、百歩さがったところから、そのリンゴを矢で射おとすのだ。いいな」それは、残忍なゲスラーらしい思いつきでした。「さあどうした? 自分の腕に自信がないのか? もし、その勇気がないのなら、弓を捨てて、帽子にひざまずけ!」

テルの心は乱れました。テルはリンゴを射おとす自信はありました。でも、ちょっとでもそれたら、息子の頭を射ぬくことになります。「どうした、テル。ためらうところをみると、おまえの腕前も、評判ほどではないようだな。さあ、リンゴの的をねらえ。いやなら、おまえだけでなく、息子も死刑だ」

「よし、やろう」息子の命までも奪うと聞いて、テルは決心をしました。テルは息子を木の下に立たせて頭の上にリンゴを乗せると、矢かごから2本の矢を選び、1本を腰にさし、1本を弓につがえました。そして、心をしずめ、大きく弓を引きしぼりました。ビューン! 弓をはなれた矢は風を切ると、みごとにリンゴの真ん中をうちぬいたのです。

息をひそめて見ていたスイス人たちから、大歓声があがり、テルと息子に近寄りました。「テル、ばんざーい」「スイス一の弓の名人、ばんざーい!」まんまとあてがはずれたゲスラーは、舌打ちしながらテルにいいました。「テル、おまえにたずねたいことがある。おまえは、腰にもう1本矢をさしてるが、何のためだ?」「これか? これは息子のかたきをうつだめだ」「どういうことだ?」「あやまって息子を死なせたら、腰の矢がおまえの胸を射ぬいていただろう」

こう答えたテルを、ゲスラーは牢屋に入れることにしますが、その途中でテルは息子を抱いて森の奥にうまく逃げ出しました。命びろいをしたテルは、その翌日ゲスラーを待ちぶせし、1本の矢で射ころしました。ゲスラー倒れるの知らせに、スイスの人たちはふるいたち、やがて、今のような、スイス人たちの国をつくりあげたのでした。


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来、長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易」とも呼ばれています。

1717年 マリア・テレジア誕生…ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いたマリア・テレジアが生まれました。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった松平定信が亡くなりました。

1930年 ナンセン死去…北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくしたノルウェーの科学者ナンセンが亡くなりました。

投稿日:2013年05月13日(月) 05:34

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)