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「紅色女皇」 江青

今日5月14日は、中国国家指導者・毛沢東の夫人で文化大革命を主導した江青(こう せい)が、1991年に亡くなった日です。

1914年中華民国の山東省の貧しい家に生まれた江青は、演劇学校に進んだのち1931年に青島大学を卒業後、図書館で働きました。そのころ、学生運動の指導者で共産主義者だった人物と知り合って最初の結婚をし、1933年に中国共産党に入党しました。その後、上海で「藍蘋(らんぴん)」の名で女優となって活躍しました。

1934年に映画監督と2度目の結婚するものの1937年に離婚、8月に第二次上海事変が勃発したことで国民党からのがれ、中国共産党の本拠地延安まで歩いて移動しました。延安では、ほとんど男ばかりのなかで演劇を教えていた江青は注目され、やがて毛沢東と出あって交際をするようになりました。しかし当時の毛沢東は結婚しており、江青との関係は不倫でした。毛沢東は江青と結婚をすることを決めたものの、スキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対し、朱徳や周恩来ら幹部たちの反発を招き、江青を政治の表舞台に立たせないことを条件に、1939年に正式に結婚しました。

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなりました。その後江青は、政治的な活動はひかえていましたが、1960年代に入ると、毛沢東が複数の女性との関係を持ったことで夫妻は事実上離婚状態となり、江青は映画や芸術方面で活動をはじめると、京劇批判などを強め、これが文化大革命の発端となりました。そして、1966年に文化大革命の嵐がまきおこると、数千万人の餓死者を出したとされる大躍進政策が失敗して国家主席から失脚した毛沢東の片腕となって、その推進に大きな力を発揮しました。

その後、政治の中央にも進出するようになり、張春橋、王洪文、姚(よう)文元と、悪名高い「四人組」を結成して、たくさんの人物を冤罪で牢獄に入れ、死においやりました。林彪失脚後は文化大革命の主導権を握り、1976年には復活したケ小平を再度失脚に追いこみ、「批林批孔運動」によって周恩来の追い落としもはかろうとしました。しかし同年毛沢東の死をきっかけに「四人組」は逮捕され、江青は1981年に2年間の執行猶予付の死刑判決を受け、1983年には無期懲役に減刑されて自宅にもどることが許されましたが、1991年病気療養中のこの日、自殺をはかって死去したのでした。
 

「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇は、京都近隣の武士1万7千人を集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医 ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。

1839年 蛮社の獄…江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士渡辺崋山、高野長英らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。崋山や長英らが、浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを非難したことへの反感からの逮捕でした。

1878年 大久保利通死去…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた最大の指導者大久保利通が暗殺されました。

投稿日:2013年05月14日(火) 05:53

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)