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華麗な作風を完成させた下村観山

今日5月10日は、横山大観や菱田春草らとともに明治から昭和初期に活躍した日本画の大家・下村観山(しもむら かんざん)が、1930年に亡くなった日です。

1873年、紀州徳川家おかかえの能楽師の家系の子として和歌山市に生まれた下村観山(本名・晴三郎)は、1881年に一家とともに東京へ移住しました。幼いときから絵の好きだった観山は、はじめ藤島常興に狩野派の手ほどきを受けた後、狩野芳崖に学びました。芳崖は、近代日本画の父といわれるほど激しい気概の持ち主で、観山は芳崖から精神と技術両面に厳しく育てられました。

芳崖亡き後は、芳崖の親友だった橋本雅邦に師事したことで、1889年に東京美術学校(現・東京芸大)に第1期生として入学したときは、すでに他の画学生よりも、ぬきんでた技術を身につけていました。そのため同校を卒業後は、母校の助教授になるほどでした。

しかし、校長だった岡倉天心が同校をやめると、教授だった橋本雅邦らとともに行動をともにし、天心や雅邦が中心となって1898年に「日本美術院」を創設すると、これに参加し、横山大観、菱田春草らと、同展の中心画家として活躍しました。大和絵研究に基づいた『修羅道絵巻』や、いわゆる朦朧(もうろう)調といわれる『大原の露』など、近代日本画の方向を暗示する作品を次々に発表して注目されました。1903年には、ふたたび東京美術学校の教授となり、文部省留学生としてヨーロッパへ渡りました。

主としてロンドンで、写実画の色彩や人物の表情の研究を深めた観山は、1905年に帰国すると、1907年には第1回文展(文部省美術展)の審査員に選ばれ、自ら代表作のひとつとなる『木の間の秋』を出品して高い評価をえました。しかし観山は、あくまで政府主催の文展よりも、民間の「日本美術院」とともに自由でありたいという考えを生涯つらぬき、狩野派をはじめ、大和絵、仏画などの古典を深く研究したばかりでなく、洋画の表現を取り入れる柔軟性も持ち合わせていました。

代表作は、上記作品以外に、『弱法師(よろぼうし)』『春雨』『白狐(びゃっこ)』などがあります。晩年は、紀州徳川家のおかかえ能楽師の家系にそだったことからか、能の幽玄の世界の表現をめざしたことでも知られています。

なお、下村観山の作品他は、「オンライン画像検索」で観ることができます。


「5月10日にあった主なできごと」

1863年 下関事件…長州藩は下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃しました。これが下関事件です。孝明天皇の命により14代将軍徳川家茂が5月10日を攘夷期限と奏上したことに呼応したもので、他に実行する藩がありませんでした。長州藩はフランス艦、オランダ艦にも発砲、6月1日には米・仏艦が報復攻撃に来航するなど、長州藩は苦境に立つことになりました。

1871年 円誕生…近代日本貨幣法として「新貨条例」が制定され、「円」が誕生しました。円の100分の1を「銭」、現在はほとんど使われませんが、銭の100分の1を「厘(りん)」とすることも決められました。

投稿日:2013年05月10日(金) 05:50

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)