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山賊の弟

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 82]

むかし、越後(今の新潟県)の農家に、太郎と次郎という名の二人の男の子がありました。

兄の太郎は、幼いときから乱暴な上になまけ者でしたが、大きくなっても悪い性質が直りません。そのため父親に勘当(かんどう=親子の縁を切る)されると、ひょいとどこかへいなくなってしまいました。そのうち、父親は病気で亡くなり、弟の次郎は母に孝行な働きものでしたが、不作つづきで家の暮らしがたちゆかなくなってしまいました。しかたなく、すこしばかりの田んぼを売り、母を親類にあずけて、働きに出ることになりました。

江戸に出た17歳の次郎は、ある医者の家に奉公してせっせと働き、一文もむだづかいをしなかったので、10年後には15両もの大金をためることができました。「ご主人さま、お願いがございます。母がじょうぶなうちに、このお金を持ってふるさとへ帰り、なくした田んぼを買いもどして、家を持ちたいのです」「それは良い心がけじゃ」と、主人も感心して、旅に使うこづかいやみやげものを持たせてくれました。

江戸を出た次郎は、毎日てくてく歩き、暗くなると宿屋に泊りながら、越後をめざしました。ところが、ある人里離れた山道を急いでいると、いきなり山賊たちに襲われ、お金も着物もなにもかも奪われて、まるはだかにされてしまいました。せっかく10年もかけて働いたお金を、いっしゅんのうちに取られてしまう不幸をなげきましたが、これではふるさとへ帰ることも、江戸へもどることもできません。そこで、ひげだらけの山賊の親分に、手下にでも家来にでもしてくれないかと頼みました。すると、親分もきのどくに思ったのか、今うばいとった着物や品物を縄でしばり、次郎にかつがせ、じゅばんだけをかえして、山賊たちの隠れ家へ連れて行きました。

こうして次郎は、山賊たちの仕事の手伝いを2、3日しましたが、どうしても気が進みません。そこで「どうもこの商売は、私に不向きです。もういちど、江戸にもどって、働きたいと思います。着物はじゅばん1枚あればかまいませんが、旅の途中で犬にでもかまれないように、あの脇差しだけは返してくれませんでしょうか」「そうだろうな。おまえにはこの仕事は無理だ。どこへでも行くがいい。だがな、奪いとったものを返すなんてのは、山賊のおきてにないことだ。刀なら、ここにたくさんある。1本あげるから、どれでも好きなものを取って行け」と、次郎の前に、縄でくくった刀のたばを放り出しました。それではと、護身用に赤くさびた刀をもらうと、江戸の医者の家にもどりました。わけを話すと、もう一度奉公してよいことになりました。

この主人は、刀剣が好きで、刀の目ききをするのを楽しみにするような人でした。次郎が山賊からもらってきた刀にも興味をもち、「これは、値打ちのある脇差しのようだ」といいます。医者がこの刀を、専門家に見てもらうと、昔の名高い刀鍛冶の名作ということがわかり、30両で買ってくれる人が現れました。こうして、次郎は、もう一度、母の待つ故郷に向かって出発しました。その途中、山賊にであったあの山道はさけて通ろうと思いました。でも、よく考えたすえに、同じ道を通ることにしました。おまけに、あの山賊の隠れ家に立ち寄ったのです。

「親分、覚えてくださると思いますが、わたしはこの前お世話になった旅の者です。親分にいただいた脇差しが、江戸で30両で売れました。わたしがとられた金は15両でしたから、これをみんなもらっては、義理が立ちません。半分だけ返しにきました」これを聞くと、親分はじめ山賊どもは驚いて、しばらく顔を見合わせていました。こんなバカ正直な人間に出あったのは、はじめてだったからです。「おまえは、越後の人間だといっていたが、越後のどこの村だ」次郎が、村の名や親の名まで詳しく話すと、親分は大きなため息をつきました。

「どうも、この前きたときから、そうではないかと思っていたが、おれは、十何年か前に、親に勘当させられたおまえの兄だ。おまえは小さかったからおれの顔を覚えちゃいまいが、おれのほうは、もしやと思っていた。おまえの正直な心に比べ、おれはこんな悪党になってしまった。でもな、おれは人殺しだけはしなかったが、そのほかの悪いことはなんでもやってきた。それが、わざわざ15両を山賊に返しに来たおまえのバカ正直のおかげで、おれは、生まれてはじめて、自分のやってきたことがいやになった」こういうと、親分は、ひげ面をくしゃくしゃにして、大つぶの涙をポロポロこぼしました。そして、これまで奪った宝物を全部手下たちに分け与え、弟といっしょに、ふるさとへ出発したのでした。

兄弟は、母を引き取り田畑も買いもどして、親子三人なかよく暮らすことになりました。太郎は、自分は勘当された身だからと、次郎に家を継ぐようにいいましたが、次郎は承知しません。兄弟で譲りあっているうち、ある日太郎は、なにを思ったのか、村の坊さんに頼んで髪を切ってもらい、丸坊主になると、村から出て行ってしまいました。これも、次郎へ義理をはたすためだったのでしょうか。どこへいってしまったかは、だれにもわかりませんでした。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

投稿日:2013年04月24日(水) 05:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)