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「理想の女性美」 上村松園

今日4月23日は、気品ある独自の「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した日本画家の上村松園(うえむら しょうえん)が、1875年に生まれた日です。

京都下京区四条通りにある茶舗「ちきり屋」の次女として生まれ育った上村松園(本名・津禰[つね])は、生まれる2か月前に父がなくなったため、母は茶舗を営みながら、女手ひとつで姉妹を育てました。津禰は、5歳のころから絵草紙をみたり、店の帳場の机に座りこんで絵ばかり描いているほどで、明治時代に女性が画家をめざすことなど考えられなかった時代でしたが、母は親類の反対を押し切って、1887年12歳のとき、京都府画学校(現・京都市立芸大)に入学させました。のちに松園は、著書『青眉抄』(1943年刊)に「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」とつづっています。

画学校で鈴木松年に師事すると、学校が終ってからも松年の塾で指導を受け、松年が画学校をしりぞくと、松園も画学校をやめて松年塾に正式入門しました。そんな努力が実って、1890年の第3回内国勧業博覧会に松園(松年の「松」の1字をもらう)の号で出品した『四季美人図』が、一等賞を受賞すると、来日中の英国ビクトリア女王3男のアーサー王子が購入して話題になりました。

1893年6年間学んだ松年塾を離れ、他流を習得しようと幸野楳嶺に師事しました。わずか2年で楳嶺は亡くなりましたが、松年と楳嶺の良いところを取り入れた「松園流」ともいえる独自の画風をあみだしつつありました。1859年に竹内栖鳳に師事すると、栖鳳の「1日1枚は写生の筆を採れ」という指導に従って一心不乱に画風を学び、花鳥風月・絵巻物・屏風・能面・風俗まで、よいと思ったものを写し取った数十冊もの「縮図帳」を残しています。これは、松園が命の次に大切というほど、勉強のすさまじさを物語っています。

1900年、日本絵画協会と日本美術院との連合共進会に、松園は『花ざかり』を出品すると、当時の日本画壇を代表する下村観山、菱田春草、横山大観に次ぐ3席に入賞して出世作となり、松園の名を不動のものとしました。このころから、松園芸術の完成期に入り、1907年からはじまった文部省展覧会(文展)には、第1回『長夜』、2回『月影』、4回『上苑賞秋』が、それぞれ3位となって、官展の主要作家として活躍するようになりました。

大正期に入っても、その技はさらに磨きがかけられ、『舞支度』『花がたみ』などの傑作を生み出したほか、唯一の艶麗な異色作といわれる『焔(ほのお)』を描いています。1934年に心の支えとなっていた母が亡くなると、最高傑作といわれる『序の舞』や『草紙洗小町』『雪月花』などの代表作をつぎつぎに発表しました。いっぽう母を追慕した『夕暮』『晩秋』他、格調高い作品を生み出し、母を失ってからの数年は、千年の歴史ある京の伝統文化に育まれた、本格的美人画を完成させた絶頂期でもありました。

敗戦後の1947年には、女性として初めての文化勲章を受賞し、1949年に亡くなりました。長男の上村松篁、松篁の子の上村淳之もまた著名な日本画家です。なお、『序の舞』ほか松園の主要作品は、「オンライン・上村松園作品ギャラリー」で見ることができます。


「4月23日にあった主なできごと」

1616年 シェークスピア死去…『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『べニスの商人』などイギリスのエリザベス朝演劇を代表する劇作家シェークスピアが亡くなりました。

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、幕府の要人の襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは1円と定められていました。

投稿日:2013年04月23日(火) 05:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)