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オイディプス王とスピンクス

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 74]

むかし、ギリシャのテーベという国に、ライオスという王さまがいました。ある日王さまは、アポロンの神さまのお告げを受けました。それは、「こんど生れる王子に殺されるだろう」というものでした。驚いたライオス王は、生れたばかりのわが子を、一人の羊飼いに渡し、殺してくるように命じました。羊飼いは王子を抱いて城をでましたが、腕に抱かれた赤ん坊を見ると、かわいそうで、とても殺す気にはなりません。そこで山奥に入り、木の枝につるして城にもどり、命令通り、殺してきたと王さまに告げました。

王子は運よく、通りかかった人に救われました。やがて、子どものいなかったコリントス王の手にわたり、オイディプス王子として大事に育てられました。王子は、自分が捨て子だということは知らず、りっぱな若者に成長します。でも、コリントス王の実子ではないといううわさに悩み、アポロンの神さまのお告げを聞こうと、旅に出ました。

その旅の途中のことです。馬車に乗った王子が、とある狭い道にやってくると、むこうからひとりの老人と従者の乗った馬車がやってきました。どちらかが、引き返して道をゆずらなくては通れません。するとむこうの従者が、王子にもどるようにいうのです。王子が拒否すると、いきなり従者は、王子の馬に斬りつけました。怒った王子は、老人と従者を殺してしまいました。この老人こそ、ライオス王でした。神のお告げが的中したばかりか、アポロンの神に「おまえは、実の母と結婚することになるだろう」と告げられたのです。

そのころ、テーベの国の人々は、恐ろしい怪物に悩まされていました。それはスピンクス(スフィンクス)といって、人間の顔をしているのに、ライオンのような身体をした怪物です。それが、道端に座りこんでいて、通りかかる人になぞをかけ、とけなければ殺して食べてしまうのです。毎日、たくさんの人がなぞを解けずに、殺されました。

この話を聞いたオイディプス王子は、スピンクスを退治しようとやってきました。スピンクスはさっそく、「朝は四本足で、昼は二本足、夜に三本足で歩くのはなんだ?」となぞをかけました。「それが、おまえのなぞか? 人間じゃないか」「どうして人間なのだ」「人間は赤ん坊のときは両手両足を使って四本足で歩くが、すこし大きくなると二本足で歩く。歳をとれば、杖をついて歩くから三本足だろう。もっと、むずかしいなぞを出せ」そういわれたスピンクスは、谷に身を投げて死んでしまいました。

王を失ったテーベの人びとは、スピンクスのなぞを解き、これを退治した者を、王の妃イオカステの夫としてテーベの国王にするというお触れを出していました。そこで、オイディプスは約束どおり王位について、イオカステを妻としました。こうして、アポロンの神の予言は、すべてその通りになったのでした。

オイディプス王とお妃のあいだには、二男二女が生れましたが、おそろしい飢きんや、はやり病がおこって、たくさんの人が死にました。 この原因はなにかを、アポロンの神にたずねると「国内にいるライオス殺しの犯人を突き止め、これを追放せよ。もしくは殺して罰せよ」というものでした。

オイディプス王は、熱心に探索をはじめたところ、やがて、まさに自分自身が、その恐ろしくも忌まわしいけがれの元であることがわかりました。 真相を知った妃のイオカステは、それを恥じて自殺しました。オイディプス王は、激しい心の苦しみの果てに、みずから両目をつぶして放浪の旅に出たあげく、みじめな一生を終えたのでした。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁の足がかりとしました。

1936年 パブロフ死去…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが亡くなりました。

投稿日:2013年02月27日(水) 05:47

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)