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帯久

「おもしろ古典落語」の108回目は、『帯久(おびきゅう)』という、お笑いというより人情噺の一席をお楽しみください。

江戸時代のなかごろ、日本橋本町四丁目に和泉屋(いずみや)与兵衛という、たいへん繁盛している呉服店がありました。隣町の本町二丁目には、帯屋久七が営む通称「帯久」という呉服屋がありましたが、これが流行らないため「売れず屋」とかげ口をたたかれていました。

ある年の3月、金に困った久七が、和泉屋与兵衛に20両の借金を申しこみました。こころやさしい与兵衛は、「無利息、無証文、あるとき払いの催促なしで結構、そのかわり、あたしが借りにいくこともあるかもしれない」といいながら、快く貸しました。帯久は20日後に返しましたが、5月には30両、7月には50両、9月には70両と貸りたものの、20日後には返済しました。11月には100両借りましたが、この月には返済がなく、年末の大みそか、多忙な時に返しに来ました。ところが、与兵衛が100両を受け取ったところ、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出しがきたため、あわただしく出かけたことで不用意にも金はそのまま、帯久ひとり座敷に残されました。すると久七に悪い心が兆し、これ幸いと100両をすばやく懐に入れると部屋を出て、奉公人には笑顔であいさつして帰りました。帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、女房や奉公人に聞いても、みな「知りません」という返事。確かな証拠もないので、自分の不注意とあきらめてしまいます。

久七は、この百両を利用して新年早々景品をつけて大サービス。これが評判になって「売れず屋」の帯久が、たちまち大繁盛。いっぽう「和泉屋」は不運にとりつかれたように、3月に一人娘が急病で亡くなり、これに気病みしたおかみさんが5月にぽっくり。これに追い打ちをかけるようにその年の暮れ、神田三河町の大火事で、店は全焼したことで、与兵衛はすっかり気力を無くし、床につくようになってしまいました。

忠義な番頭の武兵衛が分家して「和泉屋」を名乗りましたが、他人の保証人となったことが災いして倒産。今はうらぶれて、裏長屋住まいの身ですが、懸命に以前の主人を介抱するうち、十年の歳月が流れました。ようやく全快した与兵衛は、もうなにも望みはないものの、貧乏暮らしのなか、長年にわたって自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいものと、帯屋に金を借りに行きます。

昔の義理を感じて、善意で報いてくれるかもしれないという期待でしたが、当の帯屋は「今、こっちは裏に普請中でね、遊んでる金はない」「10年前、帯久さんがお困りの折、あたしは金をお貸ししましたよね」「それはすぐに、返しましたよ」「確かに返していただきました。最後に百両、お貸ししました」「それも、返したでしょう」「はい、しかし、その百両が紛失しましたのが、けちのつき始めで」「じゃ、なにかい。その百両をあたしが盗んだとでも、いいなさるのか」「いえ、そんなつもりはありません。『いつか、あたしが困った折には、拝借にあがります』といった覚えがあります」「おぼえてませんな。和泉屋さん、今のあなたには、金を借りたところで、返す力はないでしょう。返ってこないのを承知で、貸す馬鹿はありませんよ」「帯久さん、それはあまりにも不人情……」「和泉屋さん、帰ってもらいましょう」と、若い者2、3人に命じて、表へほうりだしました。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうと覚悟を決めて、最後となるはずの煙草をのみました。たばこの吸殻の火玉が転がって、かんなくずの山の中に落ち、煙が出始めましたが、与兵衛には気がつきません。落ちていた縄を拾って、松の枝にかけて、首をくくろうとしたとき、「かんなっくずっから火が出てるぞ」「この野郎だっ、腹いせに火つけをして、死のうってんだ」大騒ぎしているとき、町役人が通りかかり、与兵衛を取り押さえて自身番へ連れこみました。事情を聞いた町役人は与兵衛に同情し、不問にした上、1両の金をみんなで出し合って家に返してやりました。

近所の噂から、このままだと、百両を盗んだことが暴かれるのを恐れた帯久は、先手を打って『与兵衛が火付けをしました』と、南町奉行所に訴え出ました。これにより、与兵衛は火付けの大罪でお召し捕りとなり、名奉行・大岡越前守さまのお裁きとなります。

下調べの結果、帯久の業悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた越前守は、お白州で、「その方、大みそかで間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで、来春にでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れて、10年経ってしまったのではないか」「あたしは返したものを、また懐へ入れるようなことはいたしません」「さようか。いたしかたあるまい。右手の中指と人さし指を出せ」。越前守は、2本の指を細い紙でぐるぐる巻きつけ、糊で貼り、判を押して封印しました。「これは、なんでございます?」「忘れたことを思い出すまじないじゃ。封印を切った折は、そのほう打ち首といたす。家へ帰って思い出せ」

帯久は家に帰ったものの、紙が破れれば首が飛ぶというので、指が使えません。毎日おむすびばかり。風呂に入ってもぬらすと破けますから、右手を高く上げたまま、寝る時も、ふとんから手を出したままです。3日もすると音を上げて出頭し、まだ返していないと白状しました。

ふたたび、白州に両人が呼び出されました。「久七、よう思い出した。ならば、百両は与兵衛へ返済いたすのじゃな」「はい、百両はこれにございます」「うん、これは元金。利息はいかがいたした?」「あの折、たしか『無利息』でいいと」「あの折は、そういったかもしれぬ。しかし、その後、与兵衛は焼け出され、寝たきり同然の病人となってしまったのじゃ。利息をつけてやらねばと思わぬか?」「わかりました。利息は払います」「では、いかほどじゃ」「年六分、6両をお支払いいたします」「あいわかった、10年で60両だな。その代わり、即金でなくともよいぞ」「分割でよろしゅうございますか?」「では、年に1両ということで」「年に1両ずつ、60年かけて払うか。かまわん、さよういたせ」

火付けの与兵衛には火あぶりの刑の判決でしたが、ただし60両の残金を全て受け取ってから執行とのお裁き。驚いた帯久がそれなら、すぐにでも60両出すといいましたが、越前にどなりつけられて、しぶしぶ納得したのでした。「与兵衛、その方何歳になる?」「六十でございます」「還暦か…本卦帰り(本家帰り)じゃのう」

「今は分家の居候でございます」


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著『随想録』の著者として、今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家ルターが亡くなりました。

1591年 千利休死去…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年天草四郎を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放して犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

投稿日:2013年02月28日(木) 05:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)