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仏馬

「おもしろ古典落語」の124回目は、『仏馬(ほとけうま)』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある寺で、本堂を建てなおすことになり、弁長という若い坊さんと西念という小僧さんが、寄付をたのみに檀家をまわりました。お寺のためだというので、お布施はたくさん集まり、ごちそうしてもらったばかりか酒をすすめられたものですから、弁長はすっかり酔っぱらってしまいました。「しっかりしてくださいよ弁長さん、まっ赤な顔しちゃって」「どうだ、こんなに寄付を集めたんだ。この土手で、ひと休みしていこうじゃないか」「だめですよ、早く帰らないと、和尚さんにしかられます」「おまえは、まだ子どもだからわからないだろうが、こうして、酒を飲んでいい気持ちになっているときがいちばんいいんだ、これがほんとうの極楽、はっはっは、極楽ごくらくだ。…だれだ、わしの頭をたたくのは?」

よく見ると、馬が木につながれていて、弁長の坊主頭をしっぽでたたいているのでした。「なぁ、西念。この馬のように、重いものをのせて歩かされ、休んでるときでもつながれている。これが、地獄の苦しみっていうものだ。そうだ、いいことがある。その荷物をこっちに出せ。おれの荷物といっしょにして、この馬に乗せるんだ。それから西念、おまえのしめてる帯をときな」「といて、どうするんですか」「その帯で馬をつなぐから、おまえはひと足先に、この馬をひいて寺へ帰れ。わしは少し酔いをさまして、ゆっくり帰る」「でも、この馬を引いていったら、馬の持ち主は困るでしょう」「いいから、あとはわしがなんとかする。和尚がわしのことを聞いたら、弁長はあとに残って、説教をしていますっていうんだぞ」

(どれ、ここでひと眠りしていこう。だがな、この土手の下は流れだ。もし、寝ぼけて川へころがり落ちたらおぼれっちまう。そうだ、馬の手綱(たづな)が木にむすびついたままになってるから、この手綱をわしの身体にくくりつけて寝れば、川へはまる心配はない、どれひと眠りすることにしよう)

それからどのくらい時間がたったことでしょう。日が西にかたむくころ、馬の持ち主がもどってきました。手綱には、馬のかわりに坊さんが結ばれているのを見て、びっくりぎょうてん。弁長は、馬の持ち主に起こされて、しまったと思いましたが、この男の笠に次郎作と書いてあるのを見つけると、とっさにいいことを思いつきました。

「これは、次郎作さま。おもどりでございましたか」「あんりゃ、たまげたな。はじめてあった坊さんが、どうしてわしのことを知ってるだ」「知ってるどころではありません。わたしは、長いあいだ、あなたに飼ってもらっていた馬なのです」「なんだって、馬の黒が、坊さんに化けただ?」「じつは、わたしは前世で、弁長という坊主でしたが、身もちが悪かったために、おしゃかさまのばちがあたって、この世に馬になって生まれたのです。ご縁があって長らく飼ってもらいましたが、難行苦行を積んだおかげで、おしゃかさまのお怒りがとけ、きょう、もとの坊主の姿にもどりました」「はて、めずらしい話をきくもんだな。おぅ、そういえば、きょうはおらがおふくろの命日だ。これから、家へいっしょにきて、お経の一つも上げてもらいてぇもんだ」「はいわかりました、どうぞごいっしょにお連れ下さい」

弁長は男の家へとやって来て、経文を唱えました。そしてそのお礼にと、食事が用意されます。次郎作が一人で酒を呑みだすと、弁長も酒が呑みたくなり、おしゃかさまがきょうだけは酒を許すとおっしゃったと、酒を呑み、ベロベロに酔っ払ってしまいました。ふと目をさますと、もう夜が明けていて、あいさつもすっぽかして、寺に帰りました。和尚にあの馬はどうしたのかとたずねられ、重い荷物を背負って歩くのはたいへんだろうと、もらってきたというと、この寺でかうことはできないので、市で売ってくるようにいわれました。弁長が市で馬を売って寺へ帰ると、いきちがいに、あの次郎作が、かわりの馬を買おうと市へやって来ました。すると、きのうまで飼っていた黒がそこに売りに出されています。

「はてな、おかしなこともあるものだ、おらの馬の黒にそっくりだ。こりゃ、黒にちげえねえ、左の耳に白い差し毛がある。これがたしかなしょうこだ、黒だ、弁長さんだ、オイ弁長さん、せっかく人間になったのに、酒飲んだりしやがったから、またおしゃかさまのばちにあてられて、馬になったな。なんとまぁ、弁長さん、なさけねぇすがたになんなすったのう」と、馬の耳へ口をよせて大きな声を出すと、馬はどう思ったか、首をひょいと横へふりました。

「はははは、だめだよ。いくらとぼけても、左の耳の白い差し毛でわかるんだ」


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した源頼朝は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1614年 角倉了以死去…豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった角倉了以が亡くなりました。

1925年 ラジオ放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

1966年 鈴木大拙死去…禅の悟りについてなどを英語で著し、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者の鈴木大拙が亡くなりました。

投稿日:2013年07月12日(金) 05:58

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)