たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 71]
むかしある村に、古くて小さな農家がありました。この家には、おじいさんとおばあさんと、幼い孫の3人が住んでいて、家の片隅にりっぱな馬が一頭いました。
ある晩のことです。その馬を盗もうと泥棒がしのびこむと、屋根裏にかくれ、みんなが寝てしまうのを待つことにしました。ところが、この馬をねらっていたのは、この泥棒だけではありませんでした。それは、村中で恐れられている「虎おおかみ」でした。馬を食べてやろうと、泥棒とおなじように、屋根裏に隠れて、夜がふけるのを待っていたのです。
おばあさんは、いつものように、お話をきかせながら幼い孫を寝かしつけようとしましたが、どういうわけか、この晩はなかなか寝つきません。「ねぇ、おばぁちゃん、この世のなかでいちばん怖いものってなぁに?」「そうだね、人間のなかじゃ、泥棒がいちばんだろうね」これを聞くと、泥棒は大喜びです。「えっへっへ、おれさまが、そんなに怖いわけだな」「おばぁちゃん、それじゃぁ、動物のなかでは、いちばん怖いのはなぁに?」「そりゃ、おおかみだね。そのおおかみのなかでも、いちばん怖いのは、虎おおかみだな」これを聞くと、虎おおかみは、大満足です。「そうだろう、おれは、おおかみの王者だからな。おれにかなうものなど、どこにもいまい」
ところが、まだ孫は寝つきません。「ねぇ、虎おおかみより怖いものってないの?」「そうだねぇ…そう、いちばん怖いのは『ふるやのもり』じゃろうね。ひよっとすると、今晩あたり、くるかも知れないよ」泥棒も虎おおかみも、びっくりぎょうてんです。自分たちよりもっと怖いものがいるだけでなく、今晩、その怖いものがやってきそうだと知ると、もうブルブル、ガタガタ、震えだしました。やがて、雨が降りだし、だんだん強くなると、おじいさんが、「ややや、ふるやのもりが、来たぞ!」と大声でさけびました。そうです。[ふるや] というのは古い家、[もり] というのは、雨もりのことで、この古い家のあちこちで、雨もりがしてきたのです。そんなこととは知らない、泥棒と虎おおかみはびっくりぎょうてん。
あんまり驚いたので、屋根裏から虎おおかみがウヒャーッと落っこちると、その背中に泥棒がドッスーン。虎おおかみは、自分の背中に乗ってるのが「ふるやのもり」で、泥棒は「ふるやのもり」の上に落ちたと勘違いしています。虎おおかみは、もう、気がちがったように、大雨の中を走りまわりながら、泥棒を振り落とそうとします。泥棒も、振り落とされるのがこわくて、毛皮にぎゅっとしがみついています。
そのうち、雨があがって月が出ると、背中の泥棒は、どこか逃げるところはないかとあたりを見ると、ちょうどよい木の枝を見つけて飛び移り、やっと逃げることができました。ちょうどその木に穴が開いていたので、しばらくそこに隠れることにしました。ところが、穴は深くて、穴の底に落っこちてしまいました。いっぽう虎おおかみは、命からがら山の中に逃げこむと、たぬき、きつね、くま、さるなどの動物たちに「ふるやのもり」のことを話しました。みんなは、そんなすごいやつにこの辺をうろつかれてはたまらないと、「ふるやのもり」が消えたというあたりを、みんなで確かめにやってきました。
木の中に開いた穴があやしいと、たぬき、きつね、くまが順に尻尾や足を入れますが、穴が深くて、とても届きません。こんどはさるの番になりました。むかしは、さるの尻尾はとても長いものでしたから、その長い尻尾をたらすと、中にいた泥棒は、木のつるとまちがえて、よじ登ろうとしました。驚いたさるは、捕まったら「ふるやのもり」に食べられてしまうと思って、真っ赤な顔して、ひっしにふんばりました。ところが、もう少しというところで、スポーンと尻尾が切れてしまいました。泥棒は穴の底へ、さるは木の下へスッテンコロリン、地面ですりむいて、お尻は真っ赤っかです。動物たちはみんなびっくりして、いちもくさんに山の中へ逃げ帰りました。
さるのお尻が真っ赤っかで、しっぽが短いのは、このときからなんだって。
「1月30日にあった主なできごと」
1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。
1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道を歩みはじめました。