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はなたれ小僧さま

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 69]

昔ある山奥の小屋に、ひとりの貧しいおじいさんが住んでいました。おじいさんは、毎日、薪をかついで、町へ売りにいくことで暮らしをたてていました。この日も朝早くから、薪の束をかついで、山をおりていきました。「薪、まき、まきはいらんかね」 と一日じゅう売り歩きましたが、どうしたわけか、ひと束も売れません。しかたなく、かついできた薪をそのまま背負って、山へもどることにしました。

けれども、背中の薪は重いために、疲れてヘナヘナと道端に座りこんでしまいました。そこは、龍神さまのまつってある祠(ほこら)の前で、近くに川が流れていました。「ふぅーっ、家まではまだまだ遠いなぁ」とためいきをつきましたが、ふと、いいことを思いつきました。「そうだ、この薪を龍神さまにさしあげよう。龍神さまぁー、残りものですが、どうぞこの薪をお使い下さい」 と、かついできた薪の束をみんな、川に流したのでした。

龍神さまを拝んで、そろそろ帰ろうとすると、だれかが、おじいさんを呼びとめる声がします。ふり返ってみると、祠の前に、小さな子どもを抱いた、若い女の人が立っているではありませんか。「さきほどは、薪をたくさんありがとうございました。龍神さまはたいへんお喜びになって、そのお礼に、この子をさしあげたいそうです。この子は、いつも鼻やよだれをたらした、みにくい子ではありますが、『はなたれ小僧さま』といってお願いすれば、なんでも望みをかなえてくれます。そのかわり、毎日三度ずつ、取り立ての海老なますをこしらえて、食べさせてください」 女の人は、そういうと、おじいさんに小僧さまを渡しました。

「ま、まっとくれ。わしには、子どもなんぞ育てられねぇ!」 と叫びましたが、その時にはもう女の人の姿はなくなり、鼻をたらし、よだれをたらした、きたならしい男の子がちょこんと立っていました。おじいさんはしかたなく、はなたれ小僧さまを小屋に連れ帰り、神棚にすえましたが、狭い小屋なので、足の踏み場もありません。そこで、ためしに「はなたれ小僧さま、どうぞこのじじいに、もう少し広い小屋をくださいまし」と、お願いをしてみました。それを聞いたはなたれ小僧さまは、鼻をズ・ズ・ズと、すすりました。するとどうしたことでしょう、あっというまに、大きな屋敷が、ドーンと出てきたではありませんか。「ヒャーッ! 」 おじいさんは、びっくりぎょうてんです。

「こりゃ、この小僧さまは、ほんとの龍神さまの子じゃわい。さてさて、そうなりゃ、粗末にゃできないぞ」おじいさんは、取り立ての海老を手に入れ、なますにして小僧さまにそなえると、小僧さまはそのなますをうまそうに食べました。それから、おじいさんは「あのなぁ、こんなにりっぱな屋敷を出してもらったのはありがたいが、着てるもんが、こんなボロじゃ困ったもんだ。どうか、着るもんを出してくれまいかのう」 するとまた、はなたれ小僧さまは、鼻をズ・ズ・ズ……、おじいさんは、長者のような姿になりました。

「ひゃーっ、みたこともない、すばらしい着物を出してくれたな。ありがたいことじゃ、そうじゃ、腹がへってきたからお米がほしいな。米をおさずけください」 すると、米俵が3つ、おじいさんの前に現れたのです。「おお、3つも出してくださりましたか。……そうじゃ、だいじなものを忘れてた。お金じゃ、お金があれば何でも買える。どうか、千両箱を出してくだされ」 と、頼むと、小僧さまは、鼻をズ・ズ・ズ。「うっひゃー、出たー、出たぁ!!」

こうしておじいさんは、小僧さまのおかげで、倉も建ち、女中さんを雇い、いつの間にか、大金持ちになっていました。薪を売りに行く必要もなくなり、はなたれ小僧さまに、海老のなますを手に入れ、お供えすることだけが仕事となっていました。おじいさんは、金持ちになったことで、いろんな人とつきあいが広くなりました。あっちに呼ばれたり、こっちに呼ばれたりすることも多くなりました。そのうち、はなたれ小僧さまに、毎日3度の食事ごとに、海老のなますをお供えするのがめんどうくさくなってきました。いつも鼻をたらし、よだれをたらした、きたならしいはなたれ小僧さまの姿にも、うんざりしてきました。

(もう、こんなに大金持ちになったのだし、これ以上、小僧さまにお願いすることもあるまい) おじいさんは、ある日、はなたれ小僧さまにこういいました。「わしもおかげでりっぱになって、もう出してもらうものもない。このへんで、どうか龍宮へお帰りください。そして、龍神さまにありがとうございましたとお伝えください」 小僧さまは、悲しそうな顔をしていましたが、こっくりとうなづくと、外へ出ました。そして、振り返って、おじいさんの顔を見ながら、鼻をズ・ズ・ズっとすする大きな音がすると……、

おじいさんは、もとのつぎはぎだらけの着物で、もとのきたない小屋の中に座っていたのでした。


「1月17日にあった主なできごと」

1706年 フランクリン誕生…たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたばかりでなく、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家・著述家・物理学者・気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。

1991年 湾岸戦争勃発…アメリカ軍を主力とする多国籍軍は、クウェートに侵攻したイラク軍がこの日に設定されていた撤退期限が過ぎてもクウェートから撤退しなかったため、イラク軍拠点に攻撃を開始し、1か月あまりにおよぶ湾岸戦争が勃発しました。

1995年 阪神・淡路大震災…午前5時46分、淡路島北部を震源とする巨大地震が発生しました。神戸市・芦屋市・西宮市などで震度7の激震を記録、神戸市を中心に阪神間の人口密集地を直撃して、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となりました。自宅を失なって避難した人は30万人以上、死者6400人以上、負傷者43000人余、倒壊・損壊家屋は40万棟を越える大惨事となりました。

投稿日:2013年01月17日(木) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)