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「西洋流砲術」 と江川英龍

今日1月16日は、地方の一代官でありながら、西洋砲術を幕末に活躍する多くの志士に教え、幕閣入りを果たして江戸湾防備につとめた江川英龍(えがわ ひでたつ)が、1855年に亡くなった日です。

1801年、伊豆国韮山(にらやま)の豪族で、鎌倉時代から代々江川太郎左衛門を名乗る35代目の代官の子として生まれた英龍は、1835年に36代目として代官職を継ぐと、支配地は伊豆・駿河・相模・武蔵の4か国(のちに甲斐を加えて5か国)におよび、自ら倹約を実行することはもちろん、二宮尊徳を招へいして農地の改良、種痘の技術が伝わると接種を積極的に推進するなど領民を大切にする善政を行ったことで、「世直し江川大明神」と書かれた旗が神社に納められるほど慕われました。

英龍が代官になった当時、日本近海に外国船がしばしばあらわれては、薪水を求める事態が起こっていましたが、1837年にモリソン号事件が発生したことで、幕府は「異国船打払令」を制定しました。英龍も管轄区域に、伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれていたため、この問題に大きな関心と、旧来の立ち遅れた沿岸防備に危機感を持つようになりました。

蘭学に興味をもった英龍は、日本ではじめてパンをこしらえたり、渡辺崋山や高野長英ら洋学研究者のグループ「尚歯会」に参加して洋学の知識を積極的に吸収しました。ところが、幕府内の蘭学を嫌う目付の鳥居耀蔵らがこの動きをうとましく思い、1839年に冤罪をでっち上げて、崋山・長英らを逮捕し「尚歯会」を事実上の壊滅に追いやりました(蛮社の獄)。このとき、英龍が罪を問われなかったのは老中水野忠邦が、英龍の能力を高く評価していたからといわれています。その後、英龍は渡辺崋山らの遺志をついで長崎の高島秋帆に弟子入りして近代砲術を学んで砲術の免許をとると、1841年には、忠邦に請われて江戸に砲術指南所を開き、高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努めました。門下生には、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎(のちの木戸孝允)ら、じつに26藩1千人を数えたほどでした。

さらに英龍は、韮山に今も残る反射炉の建設を開始して(1857年完成)大砲づくりを試み、水野忠邦、鳥居耀蔵の失脚後に老中となった阿部正弘も英龍を評価して、正弘の命で築いた品川砲台づくりに生かしました。1853年のペリー来航の際は、勘定吟味役という重要な地位について、江戸湾防備に努力をしました。それらの功績により、勘定奉行にばってきされることになったものの、寸前に体調を崩し満53歳の生涯を閉じました。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡航に失敗し失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官を買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の本格的な戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家・梅原龍三郎が亡くなりました。

投稿日:2013年01月16日(水) 05:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)