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夜泣き石

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 65]

昔あるところに、貧しい百姓夫婦がありました。ふとした風邪をこじらせて夫を失くしたため、こまった身重のおかみさんは、となり村の知りあいをたよってお金を借りてきました。その帰り道、ある峠にさしかかったときには、夕暮れがせまっていました。すると、急に陣痛に見舞われ、松の根元にすわりこんで痛みをこらえていました。

そこを通りかかったひとりの侍は、しばらく介抱していましたが、おかみさんが金を持っているのがわかると、「その金をよこせ」といいました。「お許しください。これは、赤ん坊を生むための大事なお金です」「つべこべいわず早く出せ」男は、おかみさんのふところに手をいれようとします。「助けてぇ」と逃げようとしたとたん、男は刀をふりかざしておかみさんを切りつけました。おかみさんは、近くの石にすがりついてもがき苦しんでいると、急に赤ん坊が生れ、同時に息がたえてしまいました。金を奪った侍は、逃げるようにして峠を下っていきました。すると、おかみさんのしがみついていた石が、赤ん坊に代わって大声で泣き出したのです。

近くのお寺の和尚さんが、この泣き声を聞きつけてかけつけてみると、女の人が血だらけになって死んでいて、そばに、はだかの赤ん坊が転がっています。「これはどうしたことじゃ」和尚さんは、すぐに赤ん坊を抱き上げると、お寺へ連れ帰りました。それから、人に頼んでおかみさんの遺体を運んでこさせました。「かわいそうにのう、赤ん坊は、わしが育てよう。安心して成仏するのだよ」。こうして貧乏な和尚さんは、赤ん坊のために水あめを作り、それを売ったお金で乳をもらって歩いたり、大切に育てました。このあわれな出来ごとは、まもなく村じゅうに知れわたりました。ところが不思議なことに、あの石が夜になると、あわれな声を出すのです。村人たちは、「あれは『夜泣き石』だ。殺された女の魂が石にのり移ったに違いない」といって、線香や花を供えましたが、泣き声はいつまでもやみません。

あっというまに時は過ぎ、やがて赤ん坊は音八と名づけられ、13歳の少年に成長しました。ある朝のことです。「和尚さん、長い間たいへんお世話になりました。村の人たちから、『夜泣き石』のこと、私の生れた時の話を聞きました。これから毎晩、母親の哀しい声を聞くのかと思うと胸が痛みます。勝手なお願いでもうしわけございませんが、わたしは京に出て、刀鍛冶になりとうございます。どうぞ、お許し下さい」「そうか、わしはおまえを、この山寺の跡取りにしたかったが、刀鍛冶をめざすのもよかろう。人の命はみじかいものじゃ。どうせやるなら、日本一の刀鍛冶をめざせ」「ありがとうございます。和尚さんのご恩は一生忘れません」

よく朝、音八は和尚さんに送られて、都へ旅立っていきました。この時音八は、どうにかして母の敵(かたき)を討とうと心に決めていました。それから何年かのち、音八は有名な刀鍛冶のもとで、りっぱに成長していました。

ある日のこと、音八が仕事をしていると、ひとりの巡礼の男が門口に立ち、一本の刀をさしだして、買ってもらえないものか、というのです。「巡礼さん、これはたいした刀でもなく、20年も前の刃こぼれがあります」「おそれいりました。さすがは、都の刀鍛冶でいらっしゃいますね。じつは、20年もむかし、侍だったころに、ふとした心のあやまちから、ひとりの女の人を殺してしまいました。その時、手元が狂って、大石に打ちつけたときの、刃こぼれなのです。その後、その罪にさいなまれ、こうして巡礼となって諸国をめぐり歩いているところなのです」「その時、赤ん坊の声がしませんでしたか?」「えっ、なぜそのことをご存じなのですか」「その赤ん坊こそ私、あなたに殺されたのは私の母だった。母の敵、覚悟しろ!」音八は、いきなり側にあった刀に手をかけました。

すると巡礼は、がっくり膝をついてこういいました。「あなたさまに、一日も早くめぐりあって仇をうたれたいと、毎日願っていました。さあ、どうぞお打ちください。ただ、もしお許しいただけるなら、残りの33か所の札所めぐりを終えた後にしていただけませんでしょうか。お母さまの霊をなぐさめたいと存じます」「それは誠か」「嘘いつわりを申しません」「では、その日まで、おまえといっしょに、私も札所めぐりをしよう。決して逃がさぬぞ」

こうして音八は、師匠にわけを話して暇をもらい、巡礼といっしょに札所めぐりの旅に出ました。音八は、巡礼が、今日逃げるか、明日逃げるかと、ゆだんなくみはりながら歩きましたが、まったくその気配さえありません。それどころか、親が子をいつくしむような心配りです。やがて音八は、青々とした大空の素晴らしさ、夕焼けの美しさ、鐘の音の清らかさに心を洗われ、人の世のはかなさを知るうち、人を憎むことがなさけなく思うようになってきました。そんなある夜、「おろかな敵討を思いとどまれ」という和尚さんの夢を見たことで、心が決まりました。

「おじさん、札所めぐりを終えたら、親のない私のために、父親がわりになって下さい。私は、りっぱな刀鍛冶になって働きます」「なんと、もったいないこと。私を許して下さるのか?」「こうして毎日、いっしょに歩いているうち、おじさんの優しい心や人柄がよくわかりました。どうか、お父さんと呼ばせてください」。しっかり、手を握り合ったふたりの姿を、母親も空の上からしっかり見ていたのでしょう。それからまもなく『夜泣き石』は泣かなくなったということです。


「12月13日にあった主なできごと」

1797年 ハイネ誕生…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表し「愛と革命の詩人」といわれたドイツの文学者ハイネが生まれました。

1901年 中江兆民死去…フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家 中江兆民が亡くなりました。

1937年 南京大虐殺…同年7月、北京郊外の盧溝橋近くで日中両軍が衝突(盧溝橋事件)して全面戦争になっていましたが、日本軍は当時の中国の首都南京を占領し、軍人ばかりでなく、女性や子どもを含むたくさんの市民を殺しました。この日の犠牲者は、中国側の発表では30数万人、日本の研究でも3万人以上とされていますが、いまだに真相はわかっていません。

投稿日:2012年12月13日(木) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)