児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  偉人の子ども時代 >  「牧野富太郎」 のこども時代

「牧野富太郎」 のこども時代

● 友だちに遊んでもらえず ひとりで植物さがし

父も母も小さいときに亡くして祖母に育てられた富太郎には、友だちができませんでした。そのうえ、みんなから 「西洋ハタットオ」 とよばれて、からかわれました。富太郎が生まれた高知県あたりでは、バッタのことをハタットオとよび、やせて骨のでっぱった富太郎のからだつきが、すこしかわったバッタに、にていたからです。
富太郎は、酒屋だった牧野家のあとつぎでしたから、祖母には、たいへん、かわいがられました。しかし、どんなに祖母にかわいがられても父も母もいないうえに、友だちにもあそんでもらえないのでは、さみしくてしかたがありません。富太郎は、小学校へあがるまえから、さみしさを忘れるために植物さがしに、むちゅうになりました。そして、植物をさがして野山をあるいているうちに、からだもじょうぶになっていきました。
9歳のときには寺小屋へ、10歳のときには名教館という塾へかよって勉強してきた富太郎は、このころ日本ではじめてできた小学校へ12歳で入学しました。そして、わずか2年で、いちばん上の学年まですすんでしまうと、もう、それで学校へ行くのをやめて、それからのちは、本を読んで、自分ひとりで勉強していきました。この自分で学ぶ努力が、富太郎を大植物学者にしたのです。

牧野富太郎(1862〜1957)──自分の力で勉強をつづけて、1000種におよぶ新種の発見に生涯をささげた植物学者。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。近日中にアップする予定ですので、ご期待ください。

投稿日:2006年10月24日(火) 13:31

 <  前の記事 「スチーブンソン」 のこども時代  |  トップページ  |  次の記事 「ゴッホ」 のこども時代  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/523

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)