● 友だちに遊んでもらえず ひとりで植物さがし
父も母も小さいときに亡くして祖母に育てられた富太郎には、友だちができませんでした。そのうえ、みんなから 「西洋ハタットオ」 とよばれて、からかわれました。富太郎が生まれた高知県あたりでは、バッタのことをハタットオとよび、やせて骨のでっぱった富太郎のからだつきが、すこしかわったバッタに、にていたからです。
富太郎は、酒屋だった牧野家のあとつぎでしたから、祖母には、たいへん、かわいがられました。しかし、どんなに祖母にかわいがられても父も母もいないうえに、友だちにもあそんでもらえないのでは、さみしくてしかたがありません。富太郎は、小学校へあがるまえから、さみしさを忘れるために植物さがしに、むちゅうになりました。そして、植物をさがして野山をあるいているうちに、からだもじょうぶになっていきました。
9歳のときには寺小屋へ、10歳のときには名教館という塾へかよって勉強してきた富太郎は、このころ日本ではじめてできた小学校へ12歳で入学しました。そして、わずか2年で、いちばん上の学年まですすんでしまうと、もう、それで学校へ行くのをやめて、それからのちは、本を読んで、自分ひとりで勉強していきました。この自分で学ぶ努力が、富太郎を大植物学者にしたのです。
牧野富太郎(1862〜1957)──自分の力で勉強をつづけて、1000種におよぶ新種の発見に生涯をささげた植物学者。
詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。近日中にアップする予定ですので、ご期待ください。