● 木登りもできない弱虫でも、学ぶことはだれよりも好き
結核で35歳の短い生涯を終えた子規は、子どものころから、ひよわでした。仲間とけんかをすれば、きまって負け、いつもしくしく泣きながら家へ帰っていきました。
木のぼり遊びのときは、どうしても自分だけのぼれず、みんなに笑われました。くやしくて必死にのぼろうとしても、腕の力が弱く、両手で木にしがみついても、ずるずるとずり落ちるばかりだったのです。
しかし、学ぶことはだれよりも好きでした。それに、驚くほどもの覚えがよく、まわりの人びとに早くから将来を期待されました。
11歳のとき、はじめて漢詩を作り、それからは毎日1句ずつ作って、土屋文明 (歌人) の指導を受けました。また、なによりも文学が好きで『源平盛衰記』『水滸伝』『八犬伝』などを早くから読み、12歳で中学校に入ってからは仲間と回覧雑誌を作って、多くの詩文を発表し、批評しあいました。自分の書いたものへの批評は、どんなにきびしいものでも受けとめて、自分をみがいていこうとしたのでしょう。
15歳のころには、当時の自由民権運動にひかれて、政治家を夢みたこともありました。しかし、やがて自分から中学校を退学すると、郷里の松山をあとにして上京。大学予備門 (第一高等学校) に入って哲学や短歌を学び、18歳のときには早くも俳句を発表して、俳人への道を歩みはじめました。でも、もうこのころから結核による喀血がはじまっていました。
子どものころ子規はけんかに負けてはいましたが、けっして自分自身には負けず病気と闘いながら、強く生きていったのです。
正岡子規(1867〜1902)──病床に臥せながらも文学活動を続け、写生を重んじた明治期の俳人・歌人。
詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづき正岡子規を含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。