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「一茶」 のこども時代

● まま母にしかられながら子守り

一茶というのは、句をよむときの名まえです。ほんとうの名は、信之 (のぶゆき) といいました。3歳のときに母がなくなり、信之は祖母に育てられました。祖母は、かわいがってくれました。しかし、村の子どもたちからは 「親のない子は、どこでも知れる。つめをくわえて、かどに立つ」 と、からかわれ、いつも、ひとりぼっちでした。このころのさみしさは、のちにつくった 「われと来て 遊べや 親のないすずめ」 という句に、よくあらわれています。
7歳になったとき、新しい母がきました。でも、信之は、どうしても、なつくことができず、この新しい母からは、かわいがってもらえませんでした。弟の仙六が生まれると、ちいさな背におぶって子守りをさせられ、仙六がむずかって泣きだすと 「お母さんを困らせようと、わざと、おまえが泣かしたんだろう」 と、しかられました。
これを見て心配したのは父です。父は 「しばらく、お母さんと別れてくらしたら、仲がよくなるかもしれない。江戸へでてみたらどうだ」 と、すすめてくれました。
14歳になった信之は、思いきって、江戸へでました。そして、他人の家の軒下に寝るような苦しみをつづけ、やがて、苦しい生活の支えとして、俳句を学ぶようになっていきました。

小林一茶(1763〜1827)──3歳で母に死に別れ、14歳で江戸にでて、心やさしい、そぼくな歌を読みつづけた俳人。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/issa/index.html

投稿日:2006年10月03日(火) 14:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)