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三方一両損

「おもしろ古典落語」の5回目は、『三方一両損(さんぽういちりょうぞん)』(または『大岡裁き』) をお楽しみください。

(神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎は、ある日柳原の土手で、神田堅大工町の大工・熊五郎名義の印形と書付、三両入った財布を拾いました。金太郎は、さっそく家を訪ねて届けたところ、へんくつで宵越しの金を持たない主義の熊五郎は、印形と書付はもらっておくが、おれを嫌って勝手におさらばした金なんぞ受けとるわけにはいかねぇ、といい張って聞きません。

親切心で届けてやったのを逆にすごむ熊五郎に、金太郎も頭にきて、大げんかになります。騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入りますが、かえってけんかが飛び火して、熊が「この逆蛍(はげ頭)、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかくいわれる筋合いはねぇ」と毒づいたから、大家もカンカン。こんな野郎はあたしが召し連れて訴えをするから、今日のところはひとまず帰ってくれといわれました。

腹の虫が納まらないまま金太郎は自分の長屋に引き上げ、大家に報告すると、こちらの大家も、向こうから先に訴えられたんじゃあ、てめぇの顔は立ってもおれの顔が立たないと、急いで願書を書いて南町奉行所に訴えます。後日、奉行所から呼び出しがかかり、それぞれの大家は、熊五郎と金太郎を連れて、奉行所のお白洲へ。こうして名奉行、大岡越前守のお裁きがはじまります)

「大工熊五郎とは、そちのほうか。そのほうが去(い)んぬる日、柳原において金子(きんす)三両、印形、書付を取り落とし、これなる左官金太郎なるものが拾いとり、そのほう宅へ届けつかわしたるところ、金子を受け取らず、乱暴にも金太郎を打ちちょうちゃくに及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」

「へぇ、どうもあいすいません。わざと落としたわけでもなんでもねぇ、つい粗相で落としてしまったんで、勘弁しておくんなせぇ。なーに、落っこったぐれぇはわかってますがね、そこは江戸っ子ですから、うしろをふりかえったり、拾ったりすりゃ、傍で見ていてみっともねぇことをしやぁがると、こう思われやしねぇかと、こんなめでたいことはない、久しぶりにさっぱりしていい心地だと、家へ帰って鰯の塩焼きで一杯やってると、いきなりこの野郎がやってきやがって、お節介にも『これは、てめえの財布だろ? おれが拾ったんだ。さぁ、中をあらためて受け取れ』ってぬかしやがるんで、『印形と書付はもらっとくが、銭はいったんおれの懐から出たもんだから、おれのもんじゃねぇ、だから持ってけ』てぇいったんですが、こいつがどうしても持っていかねぇで…だから『持ってかないとためにならねぇぞ』と、こいつのためを思って親切にいってやりますとね、こいつは人の親切を無にしやがって、どうしても持ってかねぇと強情をはるもんですから、『このやろう、まごまごしてやがると、ひっぱだくぞ』というと『殴れるもんなら殴ってみろ』ってんで、当人がそういうものを、殴らねぇのも角が立つだろうと思って、ポカリっ…と」

「さようか、おもしろいことを申すやつじゃ…、さて左官金太郎、そのほう、なにゆえそのみぎり、金子、熊五郎より申し受けぬのじゃ」「おいおいお奉行さん、みそこなっちゃいけねぇぜ。金はたった三両だよ。そんな金を猫ババするようなそんなさもしい了見をこっちとら持っちゃいねぇよ。そういう了見なら、あっしはいま時分、棟梁になってるよ。どうかして棟梁になりたくねぇ、人間は金を残すようなめにあいたくねぇ、どうか出世するような災難にあいたくねぇと思わばこそ、毎朝、金比羅さまへお灯明をあげて…それを、お奉行さまでも、その金をなぜ受け取らぬとは、あんまりじゃねぇか」

「よい、しからば両人とも金子は受け取らぬと申すのじゃな。…ならば、この三両は、越前が預かりおくが、よいか? ついては、そのほうどもの正直にめで、両人に改めて二両ずつ、ほうびをつかわすが、この儀は受け取れるか」「恐れながら家主より、当人に成り代わって御礼を申し上げます。町内よりかような者が出ましたことは、誉れでございます。ありがたく頂戴いたします」

「両人にほうびをつかわせ。…双方とも受けてくれたか、このたびの調べ、三方一両損と申す。わからんければ越前守申し聞かせる。これ、熊五郎、そのほう金太郎の届けしおり、受け取りおかば三両そのままになる。金太郎もそのおりもらいおかば三両ある。越前守も預かりおかば三両、しかるに越前一両を足し、双方にニ両ずつつかわす。いずれも一両ずつの損と相成る。これすなわち三方一両損と申すのじゃ、あいわかったか。あいわからば、一同立て…待て待て、だいぶ調べに時を経たようじゃ、定めし両人空腹に相成ったであろう。ただいま両人に食事をとらす…」(二人はめでたく仲直りし、豪華で美味な食事をごちそうになります)

「うーん、こいつはうめぇや、おめぇも食ってるか? これから腹がへったら、二人でちょいちょいけんかして、ここへ来ようじゃねぇか」「こりゃこりゃ、両人、いかに空腹だとて、腹も身のうちじゃ、あまり食すなよ」

「えへへっ、多かぁ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶 が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1547年 ヘンリー8世死去…イングランド王で、カトリック教会から離れ、イングランド国教会の首長となったことで知られる ヘンリー8世 が亡くなりました。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。

1687年 生類憐れみの令…江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉 は、この日悪名高き「生類憐れみの令」を出し、亡くなるまでの23年間にわたり人々を苦しめました。犬や猫、野生の鳥獣保護ばかりでなく、食用の魚貝類やにわとりまでも飼育したり売買を禁止しました。

1912年 南極に日章旗…白瀬矗(のぶ)率いる南極探検隊が、南緯80度付近に日章旗をかかげ「大和雪原」と命名しました。のちに、この地は氷上であって、南極大陸ではないことが判明しました。

投稿日:2011年01月28日(金) 06:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)