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童謡詩人・野口雨情

今日1月27日は、『十五夜お月さん』『七つの子』『しゃぼんだま』などの童謡や『波浮の港』『船頭小唄』などの歌謡の作詞家として、今も歌われる名品の数々を残した野口雨情が、1945年に亡くなった日です。

1882年、茨城県北部(現・北茨城市磯原町)の廻船問屋を営む名家の長男として生まれた野口雨情は、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して、坪内逍遥の指導を受けました。また、同窓の三木露風らに刺激されて、詩を作りはじめますが、1年余りで中退。やがて、小川芋銭らと交わって社会主義の影響を受けて労働雑誌に詩を寄稿、1905年には、日本初めての創作民謡詩集『枯草』を自費出版、1907年には三木露風らと早稲田詩社を結成するなどの活動をしますが、いまひとつ満足できないものがあったのでしょう。その後しばらくは詩作から遠ざかり、北海道へ流浪の旅にでました。

新聞記者となって『小樽日報』に勤務していたときには、同僚の 石川啄木 と交友を結んでいます。さらに雨情は、最果ての地である樺太に渡り、そこで綴った詩を、東京の雑誌社へ送りつづけましたが、中途半端なものでした。旭川の新聞社勤務後に雨情は、東京にもどって、小川未明のところに身を寄せたりしていましたが、やがて帰郷しました。

1918年、鈴木三重吉 が、子どもの文学の大切さを世の中に広く訴えて発刊した児童雑誌『赤い鳥』が話題となり、童話や童謡を中心とした運動が高まりをみせました。これに刺激されて雨情は、水戸で雑誌『茨城少年』を創刊、翌1919年には、再度上京して『都会と田園』を発表して詩壇に復帰、『船頭小唄』を作って中山晋平に頼んだのもこの年のことでした。すでに38歳になっていた雨情の詩魂が開花をはじめるのは、これがきっかけでした。

雨情は、創刊されたばかりの児童雑誌『金の船』へ、『十五夜お月さん』など話題となる童謡を次々と発表、1920年には『金の船』童謡欄の選者となり、これ以降、雨情の童謡には、ほとんどの詩に曲がつくようになって、1921年には『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』(共に本居長世作曲)が発表されました。こうして、大正デモクラシーの自由な空気の中で、今も歌い継がれる普遍的な愛をうたった創作童謡群の中心となって活躍するようになったのです。そして、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人といわれるようになりました。

その後の雨情は、童謡とともに盛んになった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年には日本民謡協会を再興して理事長に就任しています。また、日本各地を旅行し、その地の民謡(ご当地ソング)を数多く創作しました。1945年、疎開先の宇都宮市近郊で亡くなりましたが、63年の生涯の中で、2000余編にのぼる詩を残したといわれます。

なお、弊社で刊行した「みんなのおんがくかい」(絵本12冊・CD12枚)には、母から子へと歌い継がれてきた珠玉の童謡120曲がおさめられていますが、雨情の作詞による『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺のたぬきばやし』『うさぎのダンス』『俵はごろごろ』以上10曲を、歌唱・絵・詞・解説つきで収録しています。

また、オンラインブック「青空文庫」では、雨情のたくさんの詩やエッセイを読むことができます。


「1月27日にあった主なできごと」

1219年 源実朝死去…鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。

1756年 モーツァルト誕生…ハイドンやベートーべェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家 モーツァルト が生まれました。

1832年 キャロル誕生…イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。

1902年 八甲田山遭難事件…日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。

投稿日:2011年01月27日(木) 06:45

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)