1936年の6月27日は、児童雑誌 「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉が、児童文学を愛する人々におしまれながら、亡くなった日です。
三重吉は、帝国大学(いまの東大)に在学中、グリムやアンデルセンの童話を原書で読んだり、師である夏目漱石から借りた世界各国の子ども文学に親しむうち、日本の作品が世界水準より、はるかに劣っていることを強く感じ、なんとか優れたものにしたいと考えるようになりました。卒業後は、中学校の先生をしながら大人向けの小説をかいていましたが、1916年に長女が生まれたのをきっかけに、童話を書くようになりました。そして2年後の1918年6月に「赤い鳥」を創刊、日本の童話や童謡を文学的に高める活動をはじめました。
当時、文学者として定評のあった泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介、有島武郎、菊池寛、島崎藤村らに、子ども向けの作品を依頼、「将来この国をになう子どもたちには、大人向の作品以上に心をこめて執筆をお願いします」 という情熱は、とてもはげしいものがあったと多くの方々が回想しています。
そんな情熱がたくさんの名作を生み出したのでしょう。「赤い鳥」に掲載された作品には、芥川龍之介「くもの糸」「杜子春」、有島武郎「一房の葡萄」、新美南吉「ごん狐」などの児童文学、童謡では「からたちの花」(北原白秋)「かなりや」(西条八十) は特に評判となり、今も読みつがれ歌いつがれています。「赤い鳥」は1936年に三重吉が亡くなるまで198冊が刊行されました。
「赤い鳥」が高く評価されるのは、雑誌の発刊だけではなく、子どもの文学の大切さを世の中に広く訴え、ひとつの運動として高めたことです。「赤い鳥」 に刺激され、「金の船」(1919年)、「童話」(1920年)など、類似の児童雑誌が次々に発刊され、子どもの文化を大きく花開かせました。そして、その運動の中から、たくさんの童話作家、童謡作家、絵本作家を生み出したのです。
なお、「青空文庫」では、鈴木三重吉の代表作「古事記物語」をはじめ、25作品を読むことができます。