私の好きな名画・気になる名画 25
モディリアーニほど、さまざまな伝説の持ち主はあまりいません。伝説がほんとうなら、絵をかく時間などなかっただろうといわれるほどです。1914年におきた第1次世界大戦のころ、パリのモンパルナスのカフェは、若くて貧しい芸術家のたまり場でした。安酒や麻薬のにおいのただよう店の中で、芸術論をたたかわす者、大声で歌う者、酔いつぶれる者などの中に、30歳前後のモディリアーニがいました。「酔いどれ絵かき」 「モンパルナスの貴公子」 などと呼ばれ、女も男も思わずふりかえるほどの気品にみちた美貌の持ち主でした。
モディリアーニは1907年、23歳の時に、セザンヌの回顧展を見て深くその影響を受けました。でも、セザンヌの得意としていた風景や静物画をえがくことはなく、ほとんどが女性の人物か肖像画でした。しかも、ひと目見ただけで 「モディリアーニの絵だ」 とわかるほど個性的ですが、モデルの個性をとらえて描くのではなく、モディリアニの心の中のイメージを表現したにちがいありません。顔は細く長く、ことに首はとても長く、目は小さくて、多くはこの絵のように白眼も黒眼もない1色のうすい青か緑でえがかれています。
33歳のモディリアーニと、当時19歳だった画学生だったジャンヌ・エビュテルヌとの運命的な出会いは有名です。二人は結婚し、娘がうまれましたが、貧乏と酒におぼれ、結核にむしばまれた身体は少しも平穏にはなりませんでした。ただ、妻を心から愛していたのでしょう。モディリアーニはこの絵を含め20点以上ものジャンヌの肖像を残しています。そして1920年36歳で生涯を閉じてしまいましたが、なんとその葬式の日に、二人目の子を宿していたジャンヌは、アパートの6階から飛びおり自殺をしてしまうのです。
モディリアーニは、1884年イタリア・トスカーナ地方のリボルノという港町に、ユダヤ系銀行家の子として生まれました。早く父をなくし、母親の手ひとつで育てられました。母はモディリアニの絵の才能を見抜き、13,4歳の頃から絵の先生につかせ、16,7歳になると、ベニスやフィレンツェの美術学校で学ばせました。肺の疾患に苦しむ息子でしたが、22歳の時、絵画の都パリにモディリアーニを送り出しました。
その頃のモディリアーニは、画家よりも彫刻家をめざしていました。母国イタリアの古代遺跡で眼にした彫刻のほか、オーストラリアやアフリカの原始的な彫刻に魅せられ、形をシンプルに表現した作品を制作していました。しかし、身体の弱いモディリアーニには、石を扱うことは不向きでした。そこで、彫刻で学んだ表現方法を絵におきかえ、あのような個性的な作品群に結実したのでしょう。
生前は、ほとんど無名のモディリアーニでしたが、今や 「エコールド・パリ(パリ派)」 の代表的な画家として、シャガール、ユトリロらとともに世界中の人々に愛されています。日本でも、先月まで六本木の国立新美術館で 「モディリアーニ展」 が開かれていました。7月1日から9月15日までは、大阪・中之島にある国立国際美術館で、引き続き 「モディリアーニ展」 が開催されています。