私の好きな名画・気になる名画 13
先週の「セザンヌ自画像」に続き、ブリヂストン美術館所蔵作品、印象派の巨匠ルノアールの「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」をとりあげてみましょう。
ルノアールは、19世紀の後半にフランスで花開いた「印象派」の画家の一人で、やはり光と色彩の画家でした。でも、モネやピサロ、シスレーといった人たちが、主に風景を描いていたのに対し、ルノアールは人物を中心に描きました。子どもも大人も光に包まれているかのようで、とくに女性の美しさは格別なものがあります。そして、見る人たちを楽しい気分にさせるせいでしょう。日本人ばかりでなく、世界の人たちを魅了しつづけています。
ルノアールは、1841年に中部フランスの陶器の町リモージュに、仕立職人の家で7人兄弟の6番目に生まれました。3、4歳の頃一家はパリに移りましたが、貧しかったために13歳のときから陶器工場で皿に絵をかいて働くようになりました。ところが、機械による大量生産商品の増大にともない、仕事がなくなってしまいました。そのため、扇子に絵をかく仕事にかわり、家の暮らしを助けながら、少しずつ絵の勉強をつづけました。
1862年、21歳の時に官立美術学校へ通う一方、グレールという画家のアトリエに顔をだしました。そこでモネやシスレーと知り合うことにより、「目に見えた物を、ただ正確に美しく描くのではなく、見た瞬間に感じたことや印象に残ったことを絵にしていく」といった印象派の考え方に共鳴して、絵を描きつづけました。1864年には、当時の画家の登竜門ともいうべきサロンに入選、その後もときどき入選しましたが、明るい色の多い絵を描くようになると、サロンに落選するほうが多くなったため、印象派の人たちの催す展覧会に出品するようになりました。その頃になっても、ルノアールはいつも貧乏で、肖像画でやっと生活をささえるほどでした。でも、絵の上では、そんな生活の苦しみからくる影は少しもなく、師であるグレールが「君はまるで楽しむために絵を描いているようだ」と咎めたのに対し「楽しくなければ絵など描きません」と答えたという逸話が残されています。
そんなルノアールが、高い評価を受けるようになったのは、出版業を営むシャルパンティエ夫妻がルノアールの絵を気に入り、1875年に3点の作品を買い上げてくれたこと、シャルパンティエ夫人の文芸サロンに、出入りを許されたことがきっかけだったといわれています。富豪家系の出である夫人が、各界の名士たちを招くこの文芸サロンは、当時のパリでもっとも華やかなもののひとつで、ルノアールはここで有名な画家や俳優、文士たちと親しく交わることができるようになったのです。
その夫妻の長女ジョルジェットを描いたこの絵は、ルノアールの思い入れのこもった作品といえるでしょう。バラ色に輝く顔の表情、とくにつぶらな瞳がこちらをじっと見つめる、なんとも愛らしい少女。足を組んだおしゃまなポーズも絵にインパクトを与え、従来の肖像画の描き方へ挑戦しているかのようです。少女の姿ばかりでなく、日本風の居間に敷かれた豊かなじゅうたんの模様、いすの豪華な飾りなどが織りなす色彩の調和も見事です。
ところで、皿や扇子に絵をかいていたころから、絵は自分の感ずるままに楽しんでかくのだと信じてきたルノアールは、40歳をすぎると印象派の人びととはなれ、自分だけの絵をかきつづけるようになります。とくにおおく描いたのは、あどけない少女や、自然のままの女性のすがたでした。なかでも、女性の裸体画は、豊かな色で、やわらかく、あたたかく描くことをどこまでも追究して、たくさんの名画を残しました。59歳のときには、すばらしい芸術がみとめられて、フランス最高のレジオン・ドヌール勲章がおくられました。ところが、このころから、関節がいたみ始め、リューマチに苦しめられるようになりました。
しかし、ルノアールは、絵をかくことをやめません。車いすを使い、開かない手に絵筆をしばりつけて制作にはげみ、78歳で世を去るまで、絵を描き、楽しむことを忘れませんでした。そして生涯に、3000点以上の絵を描いたということです。