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ゴッホ 「アルルの寝室」

私の好きな名画・気になる名画 10

名画を描いた画家の多くは、若くして画才を認められ、その才能を着実に開花させました。しかし、ゴッホは、そんな 「生まれながらの画家」 とは、およそかけ離れた存在でした。ゴッホは、16歳の頃に画商となって、数年間は絵に関する仕事に従事しました。しかし解雇され、その後は書店に勤めたのち、語学教師、牧師や伝道師を志すも挫折、こうして彼はありきたりの仕事にはみんな失敗しました。心があまりにきれいで、がんこなゴッホの魂を受け入れてくれる職場はありませんでした。ただ1人彼をうけいれたのは4歳年下の弟テオでした。テオは一人前の美術商になっていて、兄の純粋な魂をよく知っていました。そのテオの勧めで、1880年、27歳になったゴッホは、画家になる決心をするのでした。

ブリッセルの小ホテルにこもって、教習本をみながらデッサンをはじめ、1881年モーブという親類の画家に油絵の手ほどきをうけ、ついに1885年に 「ジャガイモをたべる人びと」 という、手ごたえのある作品を描くまでの、馬車ウマのような努力は、弟テオへの手紙でよく知られています。テオが兄の手足になって生みだしたものがゴッホの作品であり、ゴッホが弟の期待に応えようと書きつづったのが 「テオへの手紙」 です。その手紙のなかで、この絵について、ゴッホは次のように言っています。「ランプの灯のしたでジャガイモを食べるこの人びとは、皿をとるそのおなじ手で土を掘ったのだ。それを私は描こうと思った。これこそ、ほんとうの百姓絵だと、やがて世間はさとるだろう」。ゴッホの絵は、それから5年後に生涯を閉じるまで売れた絵は1枚きりでしたが、いつもそんな誇りに満ちて描き続けたのでした。

1886年ゴッホは、テオの世話でパリに出ます。そのまえから日本の浮世絵のみごとな単純化を知っていた彼は、パリで印象派の画家につきあうと、いっぺんに色が明るくなりました。そして、ゴッホの絵が大きく開花するのは、1888年、南フランスの明るいアルルにいってからでした。15か月間のアルル生活で描いたゴッホの作品はおよそ190点、ヒマワリ、花さく果樹園、つり橋、オリーブ畑、糸杉など、どれもこれも傑作ぞろいといってよいでしょう。

この「アルルの寝室」もその1枚です。ゴッホは、アルルに移った時から、ここにパリで出あった仲間たちを呼び集め、いっしょに生活しながら絵画制作にはげむという夢をもっていました。そして、この「南仏のアトリエ」に居をかまえ、パリのたくさんの友人たちに、ここで共同生活をしようと、誘いの手紙を書きました。しかし、アルルにやってきたのは、ゴーギャンただひとりでした。それも、テオの金銭的な援助があったからでした。まもなく、やってくるゴーギャンに宛てた手紙に、この絵のことが書かれています。

「最近、私の寝室を描いた30号の油絵をしあげました。単純で何もない室内を描くのは楽しい仕事でした。色面は平坦ですが、大きなタッチでたっぷり塗ってあります。壁はうすい紫、床は色あせたような粗い赤茶、イスと寝台はクローム・イエロー、枕と敷布は薄緑がかったレモン色、毛布は血のような赤、テーブルはオレンジ、洗面器は青、窓枠は緑です。さまざまな色によって、絶対的な休息を表現しようとしました。白い部分といえば、黒い枠に囲まれた鏡の面だけです。あなたが来られたら、この作品もほかのものといっしょに見ていただきたいと思います」と、到着を待ちわびていることがよくわかります。

しかし、よく知られているように二人の共同生活はわずか2か月で終わってしまいました。ゴッホの非妥協的な性格と、それに輪をかけたような激しい自己主張の持ち主のゴーギャンでは、破綻は目に見えていました。ゴッホはゴーギャンの言動が気にさわってカミソリで切りつけます。そして、それをひどく悔やんで自分の耳を切り落としてわびる、ということになってしまったのです。

アルルの病院から、サン・レミの精神病院へ。そして1890年、パリから北へすこしいったオーベルという美しい村に移りすむゴッホ。
「ものを見るということは、ものを信ずるということだ」こんな手紙につづけて「いま夢中になっているのは、丘にむかった、とほうもなくひろがった麦畑の平野の絵。海のような。じつに微妙な色の。これをかいている私の気持ちの静けさは、どうやらあまり大きすぎます」。そこへ、いきなり激しい病魔がおどずれてきました。写生に出たゴッホは、しぶんの胸にピストルの弾丸をうちこんでしまったのです。

1890年、37歳。オーベルの麦畑の小さな墓に埋められました。テオは母へ手紙を書きました。
「人生の荷は兄には、あまり重かった。しかし、いまになって、みんな彼の才能をほめあげているんです。ああ、お母さん、じつに大事な大事な兄だったのです」

テオも、翌年の1月、ゴッホと同じように気を狂わせてユトレヒトの病院で終えました。彼もまた、兄の隣へほうむられたのでした。

 なお、ゴッホの生涯に興味のある方は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック 「せかい伝記図書館」 の 「ゴッホ」 の項をご覧ください。

投稿日:2007年10月26日(金) 09:28

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コメント (1)

ゴッホファン:

ホームページ拝見させていただきました。広重のことやゴッホについて語られていましたね。ゴッホは「日本人が、稲妻のように素早くデッサンするのは、その神経がわれわれよりも繊細で、感情が素朴であるからだ(書簡500)」とあるように、浮世絵の技法に触発されて早描きの練習を行ったこと、印象派の名前の元になったといわれるモネの「印象 日の出」は輪郭がはっきりとせず、描きかけの絵だと当時酷評されたのですが、この絵画は浮世絵の「ぼかし」の技法を取り入れたものだということを聞いたことがあります。浮世絵に影響を受けたのが印象派の人々ということになります。ゴッホは浮世絵に描かれている日本―明るい色彩に彩られ、自然と共に暮らす豊かな国―に憧れます。ゴッホが浮世絵を400点以上収集していたこと、浮世絵を模写した油彩画に日本文字を入れていたこと、等々最近知られるようになって来ましたが、この日本文字は単なる装飾としか捉えられていませんでした。ところが、ゴッホは日本語を理解しており、これらはある意図をもって描かれている(ゴッホ・コード)ということが五井野正画伯(ロシア国立芸術アカデミー名誉正会員)によって提唱されました。講演会「ゴッホが書いた日本文字の解読」が7月24日東京にて、また、7月26日には福島県いわき市で開催されます。もし興味がおありならぜひ聴講してみてはいかがでしょうか。詳細はインターネットで「歌川派門人会」のホームページ(http://www.utagawa.or.jp)をご覧下さい。

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)