今日10月25日は、画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家ピカソが、1881年に生まれた日です。
「物を、目に見えたとおりにえがく必要はない。目で見て自分の心で感じたもの、考えたものを、自由にえがけばよい」
ピカソは、ほとばしる情熱のままに芸術を愛しつづけた、20世紀最大の画家のひとりです。
スペインの古い町マラガで、1881年に生まれたパブロ・ピカソは、小学校へ通いはじめても、学校がきらいでした。夢中になったのは絵をかくことだけです。父が美術学校の先生でしたから、自然に、絵を愛する心に灯がともったのかもしれません。
16歳のとき、すばらしい成績で、首都マドリードの王立美術学校へ入学しました。でも、ピカソの才能は、形にはまった授業に満足できず、しだいに学校から遠ざかってしまいました。
「もっと新しいものを学ばなければだめだ。パリへ行こう」
19歳で、芸術の都パリへでたピカソは、若い芸術家たちと交わり、美術館へ通い、個展を開いて、画家への道を歩みはじめました。そして、初めは、貧しい母親、老人、浮浪者などに心をよせて、人生の孤独と悲しみを青色でえがき、つぎには、旅芸人やサーカスの道化師たちをモデルにして、人間が悲しみをおさえて生きるすがたを、こんどは桃色でえがきました。ピカソの、心でとらえるえがき方が、色を変えさせたのです。
ピカソが、ほんとうに注目されるようになったのは、26歳の年に『アビニョンの女たち』を完成させてからです。絵のなかの女たちの顔やからだは、ひどくゆがんでいます。ピカソが、自分の心でとらえた女を、えがいたからです。おおくの画家たちから「ピカソは気がくるったのだろう」とさえ、思われました。しかし、ピカソは平気でした。やがて、この絵のえがき方はキュビスム(立体主義)とよばれるようになり、20世紀の新しい美の世界を生みだしていきました。
そのごのピカソは、目で見たままの写実主義の絵をかいたかと思えば、人体を怪物のように変形させた絵や、何がえがかれているのかわからないような、超現実的な絵もかきました。また、第2次世界大戦や朝鮮戦争が始まったときは『ゲルニカ』『戦争と平和』などの大作を発表して、戦争をおこした人びとに、はげしく抗議しました。
ピカソは、絵のほかに、版画、彫刻、陶器などの制作にもいどみ、さらに、舞台装置も手がけ、詩や戯曲も書き、からだのなかの芸術愛の火をもやしつくして、1973年に91歳で亡くなりました。つねに新しいものを求め、つねに飛躍しつづけた、はげしく大きな生涯でした。
以上の文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。
なお、ピカソが生涯に制作した作品には、13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器があり、最も多作な画家であるとギネスブックに記されています。