私の好きな名画・気になる名画 19
パリにある 「ルーブル美術館」 で、いちばん人だかりがしているのはレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。この絵の前には世界中から来ている観光客のさまざまな言語が飛びかいます。もうひとつの人だかりは、ダビッドの代表作 「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」。この絵の前にいるのはフランス人が多数を占めるようです。それは、フランスの英雄ナポレオンのもっとも誇り高い瞬間が描かれているからに違いありません。ナポレオンは、1796年にイタリア遠征軍最高司令官に任命されて成果をあげてから、1815年に追放されるまでの20年間が栄光に満ち時代であり、1804年12月2日に「ノートルダム大聖堂」で行なわれた皇帝ナポレオン即位の儀式を描いたのがこの作品なのです。
当時ダビッドは、ナポレオンから「主席画家」の称号を受けていました。そして、その名誉にかけて、歴史の目撃者として、また記録者として、あらゆる能力を駆使してこの戴冠式を描きました。はじめダビッドは、ナポレオンが教皇(ピウス7世・絵の中でナポレオンの後ろでいすに座っている) から冠を授かるのではなく、誇らしげに自ら冠をかむるところを描くつもりだったようです。でも、ナポレオンの動作が周囲と関係なく完結してしまうこと、傲慢な印象を与えるおそれがあること、構図としても面白さがかけるために、その冠をひざまずくジョゼフィーヌの頭上にかざすようにしたといいます。
およそ3年の歳月をかけて制作した、たて621cm、横976cmというこの巨大な絵を見たとき、ナポレオンは思わず 「これは絵ではない。まるで画面の中に入っていけるようだ」 と感嘆の声をあげたそうです。大聖堂の内部の空間、特に高さを実際の半分ぼどに縮小して臨場感あふれる演出をしたり、人物はほぼ原寸大で、総勢200人にもおよぶ人々が誰であるかを認識できる価値ある肖像画、威厳にみちた歴史画をめざしたのでしょう。中央の貴賓席には、実際に出席してはいなかったナポレオンの母親が描かれ、その上にはスケッチする自画像も描き入れているのも、自身の代表作となることを強く意識したに違いありません。
ダビッドは、1748年に鉄材を扱う商人の家に生まれました。父親はまもなく商人から徴税請負人に転進しますが、ダビッドが9歳の時、父は決闘に敗れて死亡。ダビットは、建築家である母方の叔父に引き取られました。やがて、絵の才能が認められ美術学校へ入学して、絵の修行にはげみました。でも、22歳から25歳まで毎年、若い画家の登竜門というべき「ローマ賞」に応募しますが、なかなか評価してもらえません。そして1774年、5度目の挑戦でめでたく受賞、1775年にローマ留学をはたすことになりました。出発前はイタリア美術にたいした期待はしていませんでしたが、たちまちその素晴らしさに圧倒されてしまいました。
その後、サロンという官展に「ホラティウス兄弟の誓い」という絵が出品されると、一大センセーショナルを巻き起こし、そこに描かれた兄弟愛や団結心が人々への共感をもたらし、これが1789年のフランス革命への呼び水になったとさえいわれています。生来の熱血漢だったダビッドは、革命の理想に共鳴して、美術界の行政にも力をふるいました。しかし、友人だったロベスピエールが失脚すると、ダビッドも逮捕されてしまいます。そんな彼に救いの手をさしのべたのが、英雄ナポレオンでした。ダビッドの才能と実力を高く評価していたナポレオンは、画家を主席画家に任命して、この戴冠式の絵を描かせたことは、はじめに記した通りです。
このように、ダビッドは、彼が生きた時代と同じように大波乱の人生でした。ナポレオンの失脚後は、逮捕をのがれるためにスイスに逃亡、さらにベルギーのブリュッセルで亡命生活を送リ、1825年その地で生涯を終えました。しかし、ダビッドはアングルら多くの弟子たちを育て、「新古典主義」という新しい画風をこしらえたと高く評価されています。
なお、この絵とほぼ同一の作品が、パリ郊外にあるベルサイユ宮殿にもあります。ダビッドは、会心の作品が焼却破棄されることを恐れて、亡命先のブリュッセルで描いたものです。左端に描かれた5人の女性のうち、ナポレオンが最も愛したといわれる妹フォーリンクの衣装だけを白からピンクに変えてあります。