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マネ 「フォリー・ベルジェールのバー」

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この絵 「フォリー・ベルジェールのバー」 を描いたマネは、モネやルノアールらとともに、印象派を代表する画家といわれます。でも、マネは彼らと同時代に新しい絵画を創造していましたが、印象派展には一度も出品したことはなく、印象派の画家たちに行くべき道を示した先駆者といってよいかもしれません。

マネは、1832年に裁判官の子としてパリに生まれました。16歳のころ、画家になる決心をしましたが、法律を勉強させたい父親は許してくれません。やけになったモネは、南アメリカに行く船の水夫になりました。苦労をすれば世間のつらさもわかって、自分のいうことを聞くようになるだろうと父親は甘くみました。でも航海から帰ってからもマネの決心は変わらず、父親もついに画家になることを許してくれました。

マネはクーチュールという画家の弟子になりましたが、師の教えにあきたりなくなって、ルーブル美術館に通っては、イタリアのベネチア派のティツィアーノ、スペインのベラスケスやゴヤ、オランダのフランス・ハルスらに夢中になり、模写したりして熱心に勉強をしました。さらに、画家たちの故郷であるイタリア、オランダ、スペインを旅行をするほど彼らに傾倒しました。

マネの絵の新しさは、「明るく、もっと明るく」 と従来の暗い絵に挑戦して絵を明るくしたことと、人々の暮らしをいきいきと描いたことにありそうですが、それがあまりに革新的でした。1863年、マネは大作 「草の上の昼食」 をサロンという官展に出品しましたが落選しました。しかし、その年の選び方に問題があるとして、ナポレオン3世は落選展を開きました。でも、「服を着た男たちの間に全裸の女がいるとはけしからん」 と非難されてしまいました。さらに、1865年には 「オランピア」 が出品されると 「全裸でねている女と黒人の下女と黒ネコとは、何という無作法」 と世評はますます悪くなりました。

一方、そんな世相とは反対に、これまでの誰もが考えなかったマネの大胆で斬新な絵を高く評価する人たちが現われました。詩人のボードレール、小説家のゾラらはマネをかばい、後に印象派とよばれる若い画家のピサロ、モネ、シスレー、ルノアール、ドガたちは、マネのもとに集まっては、芸術論に花を咲かせました。

そんなマネの最後の傑作といわれるのが 「フォリー・ベルジェールのバー」 です。亡くなる1年前、50歳の時の作品で、このころのマネは、ステッキなしでは、立つこともできないほど足が弱っていたそうです。フォリー・ベルジュールは、歌やショーが楽しめるパリでも人気のカフェ・コンセールでした。まさに、世界でも有数の華やかな劇場で、マネもここによく通い、青春を謳歌していたのでしょう。この作品が最後の大作になるだろうと考えたマネは、その舞台にでかけて、すばやく描いたスケッチをもとに、アトリエの中で最終的な構図を決定したようです。

真ん中に立っているのは、幕間などに飲み物や軽食を客に提供するウェイトレスで、何か物思いにふけるようなメランコリックな表情をみせています。鏡に映っている後姿を見ると、山高帽をかぶったヒゲの男客の注文を受けているようにみえますが、どう見てもこの位置関係には矛盾があり、意図的にこのような構図にしたマネの真意は謎につつまれたままです。しかし、きらびやかな照明、何百人という着飾った人々、左上に空中ブランコ乗りの足などが映し出された鏡の中のぼんやりした映像と、手前のビュッフェの上の色とりどりのビン、果物鉢の中のオレンジ、コップの2輪のバラなどの色と形のはっきりした前景との対比が、実にみごとに表現されています。愛してやまなかったパリの生活への思い出、死を前にした孤独感や喪失感、ウェイトレスの表情は、そんなマネの複雑な心境をあらわしているのではないでしょうか。

投稿日:2008年03月14日(金) 10:52

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)