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マリー・ローランサン 「3人の女」

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ローランサンは、1883年、私生児としてパリに生まれました。母は裁縫の仕事をしながらローランサンを育てました。子どもの頃から絵を描くのが好きだったローランサンは、やがてデッサンの勉強をはじめましたが、母と娘だけの狭い世界での時間が長く、本格的に絵の勉強をはじめたのは、20歳をすぎた頃のことでした。

時代は20世紀に入り、画家たちは新しい絵画の表現を求めて模索をしていました。フォービズム(野獣派)という絵画を発表したマチスに対し、ピカソやブラックは、キュービズム(立体派)という造形美術に挑戦していました。その活動の中心はピカソのアトリエで、「洗濯船」という名がついていました。たくさんの若い芸術家の中に、ローランサンもまじっていました。当時の画家は、ほとんどが男性で、女性がプロになるのは、ひと一倍努力しなくてはならなかったことでしょう。ある日ローランサンは、ピカソから、新進の詩人として注目を集めていたアポリネールを紹介されました。

ローランサンの描く絵は、ほとんどが女性の絵です。そして、独特のスタイルをしています。あごのとがった細い顔、大きな瞳をした切れ長の眼、長くてまっすぐな鼻、両すみが少し上がった唇、まっすぐに伸びた細くて長い手足。おしゃれな洋服は単純化されて描かれています。色彩はピンクとコバルトブルー、緑とグレーで、それに白がまじっていかにも女性の絵を感じさせます。

こんなローランサンの絵が気に入ったアポリネールは、雑誌の評論でローランサンの絵の革新性を絶賛したことで、二人は急速に接近していきました。「洗濯船」で仲間たちと芸術論たたかわすことからはなれ、やがてセーヌ川にかかる「ミラボー橋」で、愛を交わす間がらになりました。

しかし、6年後に破局が訪れました。アポリネールが、ローランサンとの別れのせつなさつづった詩「ミラボー橋」は有名です。「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、我らの恋が流れる。月日は流れ、私は残る……」と。後にこの歌は、シャンソンとなって大ヒットしました。

1914年にはじまった第1次世界大戦の前に、ローランサンはドイツ人と結婚したために、戦争中はスペインに亡命せざるをえませんでした。戦争が終わるとローランサンは、アルコール中毒の夫と離婚、かつての恋人アポリネールは、戦争の傷が原因で亡くなっていました。

第1次大戦後のローランサンは、より幻想的な絵を描くようになりますが、絵ばかりでなく、詩や本の挿絵をかいたり、バレーなどの舞台美術や衣装も手がけるなど、女性が社会的に多彩な仕事をするようになったリーダー的な存在としても、高く評価されています。

この「3人の女」は、60歳になった頃から描きはじめ、1956年に亡くなる少し前に完成させたローランサンの代表作です。左上にある橋は、セーヌ川にかかる思い出の「ミラボー橋」なのでしょう。最後の情熱をこの絵にこめたものと思われます。なお、この絵は長野県の茅野市にある、世界で唯一のローランサンの専門美術館「マリー・ローランサン美術館」に飾られています。1983年に100点ほどの展示物から開館し、いまでは学生時代のデッサンや版画など、あらゆる年代のローランサンの代表作500点を収納しています。

投稿日:2008年05月29日(木) 10:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)