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ワールド図書館(13) 「朝鮮・モンゴル」 巻末解説

前回(4/4号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第13巻「朝鮮・モンゴル」の巻末解説(一部訂正)を記します。

「朝鮮・モンゴル」 について

[朝鮮] アジア大陸の東はしに朝鮮半島があり、大陸を背に、海をへだてて日本と向かいあっています。この朝鮮半島の人びとは、中国人や日本人と同じ膚の色をしています。いま日本にはおよそ数十万人の朝鮮の人びとがいます。なぜこんなにたくさんいるのでしょうか。日本と朝鮮の交流は古くからあり、5世紀のはじめには朝鮮からの渡来人がふえ、大陸のすぐれた知識や技術が盛んに伝えられました。イネの育て方、鉄器の作り方、漢字、仏教のほか、暦や医学、養蚕、機織り、造船、建築など、日本の文化の基礎は朝鮮人によってもたらされたといっても過言ではありません。
ところが、20世紀初頭、日本の大陸侵出によってまるでようすが変ってしまいました。港に着く船からは、たくさんの鉄砲と兵隊がおろされ、たちまち日本の軍隊と商社に占領されてしまいました。こうして第2次世界大戦が終わるまでの三十数年間、朝鮮半島は植民地として日本の思うままにされました。土地をうばわれた農民たちは生活ができなくなり、満州などに出かせぎにいきました。むりやり日本に送られ、炭鉱や工場、土木工事などで、安い賃金で働かされた人もおおぜいいます。
やがて戦争が終わり、やっと日本から祖国をとりもどした朝鮮は希望に燃えました。しかし、すぐにまた北緯38度線を境に南はアメリカ、北はソビエトに占領されました。そして、大韓民国 (韓国) と朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) の2つの国家が成立したのです。1950年には、南北の対立が深まって、朝鮮戦争となり3年にわたりはげしい火花をちらしました。
1965年に日韓条約が結ばれました。それは、韓国と日本が手を結び合う約束をとりかわしたものです。しかし、北朝鮮との交流はありません。そのため、ほんのわずかな帰国者をのぞいて、ほとんどの北朝鮮の人びとがふるさとに帰れずに日本で暮らしているのです。
東京のある小学校での話です。一年生の教室で先生が朝鮮の民話を読んだ後、「このお話は日本にいちばん近い国の話です。さて、どこの国の話だと思いますか」と質問しました。子どもたちは、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、スイスなど40あまりの国の名をあげました。しかし、とうとう朝鮮の名はでてこなかったということです。
この子どもたちを責める資格が、現在の日本のおとなにあるでしょうか。むしろ、それはおとなたちの責任として問われるべきでしょう。
アジアの片隅にありながら、日本の関心は常にアメリカとヨーロッパに向けられていました。めざましい経済成長をとげた日本は、アメリカやヨーロッパの資本主義国の仲間入りを念願するあまり、アジアの身近な国々との交流をあまりたいせつにしませんでした。
フランスの子どもがイタリアを知らなかったり、スペインの子どもがポルトガルを知らないということが、あり得るでしょうか。私たち日本人は、子どもだけでなく、おとなも隣国 「朝鮮」 を、もっとしっかり知る必要があると思います。
韓国と北朝鮮は、1948年の建国以来敵対関係にあり、3年にわたる朝鮮戦争後も小規模な衝突をくりかえすなど、常に緊張状態がつづいてきました。
1998年に大統領となった金大中政権が北朝鮮に対する融和的政策(太陽政策)を掲げてからは、表面的には友好関係が築かれたようにみえました。でも、北朝鮮の核開発問題や拉致問題など、未解決な問題が数多くあり、北朝鮮の経済的な破綻や人権問題の噴出により、南北統一にはなかなかつながっていないのが現実のようです。
日本にたくさんの恩恵を与えてくれた朝鮮、かつて日本が悲しみを与えてしまった朝鮮、その朝鮮の南北が一日も早く統一できるよう、日本は心からの応援を責任として果たすべきではないでしょうか。

[モンゴル] モンゴルの首都ウラン・バートルは周囲を山に囲まれた盆地の中央にあります。ぬけるような青空と澄み切った空気は、ここを訪れる旅行者の心をしんから洗い清めてくれます。ところがこの美しい街に、ゴビ地方から用事でたまにでてくる人たちは、ウラン・バートルの空気は排気ガスの臭いがしてたまらないと嘆くのです。彼らが日本にやってきたらどうでしょう。東京や大阪の繁華街などを歩いたら、たちまち窒息してしまうかも知れません。
日本の人口密度が1平方キロメートルに314人という過密ぶりに対して、モンゴルは、ふたりに満たないのです。人口をふやすことは、モンゴル国の大切な政策として長年取り組まれてきました。積極的な多産の奨励と、衛生管理の改善によって、近年の人口は年3パーセントの割合で増加しています。労働力としての人口がふえれば、地下資源に恵まれているモンゴルは、工業国としても大いに発展するでしょう。
最近は、素朴な自然の残されている国としてその名も次第に高まり、観光旅行者もふえつつあります。草原には観光用のパオも設営されています。自然の中に浸り心ゆくまで堪能したいのは誰しも望むところです。しかし観光という名のもとに、モンゴルの自然と人々のおだやかな生活を、踏み荒すことのないよう気をつけなければなりません。モンゴルの豊かな草原は、モンゴルのものであると同時に地球の大切な財産なのですから。
なお、モンゴルは、1980年代の後半よりソ連や東欧諸国情勢に触発されて民主化運動がおこり1990年には一党独裁を放棄して複数政党制を導入。1992年に社会主義を完全に放棄し、アメリカ型の資本主義を取り入れています。

投稿日:2007年04月09日(月) 09:57

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)