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ワールド図書館(12) 「中国 (2)」 巻末解説

前日(4/3号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第12巻「中国(2)」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

中国(2) について

前巻にひきつづき、中国の歩みをたどってみましょう。
中国国民党と中国共産党が合流した国民革命軍の進撃で、中国に希望の灯がともされたかにみえました。ところが、それもつかの間、思いがけない落し穴が、暗い大きな口をあけてまちかまえていました。
それは国民革命軍の総司令官、蒋介石のクーデターです。共産党を弾圧すれば「新政府として承認しよう」 とささやく、列国と財閥の求めに応じました。孫文の三民主義の理想を忘れ、中国をあらす帝国主義の諸外国としたしみ、国民をなおざりにしたのです。
蒋介石は1927年4月、労働者をおそって武器をとりあげ、共産党を攻撃したため、国共合作はくずれてしまいました。蒋介石の 「赤狩り」 はし烈をきわめ、犠牲者はわずか3年間で45万人にも達しました。
共産党は勢力の立て直しにつとめ、満州事変が起きた1931年の11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府をつくり、毛沢東を主席にえらびました。国民政府は日本軍の侵略には目をつぶり、ひたすら共産党の攻撃に明け暮れました。
共産軍 (紅軍) は、たびかさなる攻撃をそのつど撃退しましたが、犠牲も大きく、1933年、60万の兵に共産党の根拠地瑞金を攻められたときは、兵力の半分を失ないました。共産党は全滅か降伏かという苦境に立たされていました。
このとき、毛沢東は全紅軍に移動を命令したのです。1934年10月、紅軍の主力9万に農民も加わり移動がはじまります。これが世界に名を残した1万2000キロメートルにおよぶ「長征」で、総勢約30万人の大移動です。
瑞金をかこんだ国民党軍の包囲網を突破するのに、2万5000人の兵隊を失いました。紅軍は、飛行機と近代兵器で装備した国民党軍と戦いながら、けわしい山道を夜も移動しなければなりませんでした。
紅軍は、368日間の移動中に18の山脈をこえましたが、そのうちの5つは万年雪のけわしい山でした。また、ぬかるみの大草原や砂漠を横切り、橋のない24の河を渡り、苗族やシャン族などが住む6つの少数民族地方を通過しました。
なかでも、揚子江上流のターツー川を渡るときは、18時間ぶっとおしで崖をよじ登るという行軍でした。こうした大長征をおえて、陜西省の西北にある延安へ到着したときは、30万の人びとが、わずか3万人たらずに減っていました。
やがて、日中戦争 (1937年) が起きました。戦況が激しくなり、蒋介石が味方の将校に監禁されるという西安事件を経て、共産党と国民党はふたたび手をにぎり、日本に立ちむかいました。共産党は朱徳を総司令官とする八路軍や新四軍を編成して、不敗の日本軍の伝説をうちやぶるいっぽう、地主の土地を小作人にわけてやる解放区を、つぎつぎ広げていきました。
日本軍は1945年8月、ついに降伏しますが、それに先立つ40年ごろから、国民党は独裁政治をするようになり、共産党の新四軍をだましうちにしたため、内戦へ突入することになります。国民党はアメリカの援助を受け、1946年、共産党に全面戦争をしかけました。はじめのうちは、アメリカの兵器で武装した国民党軍が優勢でした。しかし、独裁と腐敗の政治にたまりかねた国民に見放され、450万の大兵力をもちながら、3年半でほとんど潰滅状態になってしまいました。蒋介石は、やむなく本土を捨て、残った50万の軍隊をひきつれて、台湾に逃がれました。
中国全土を解放した中国共産党は、毛沢東を最高指導者にえらび、1949年10月、社会主義国の中華人民共和国の成立を宣言しました。
中国の空に、五色旗にかわる新しい国旗、五星紅旗がへんぽんとひるがえりましたが、それからの中国の歩みも、けして楽なものではありませんでした。革命当初、指導と援助を受けた兄弟国のソビエトと意見がかみ合わなくなったのです。新中国の指導者たちは、共産主義の理論をつくりあげたマルクスやレーニンの考え方を、正しく実行しているのは自分たちであると考えています。そうした立場から 「ソビエトは理論を修正している」 と、批難するようになり、友好関係が急速に冷えていったのです。誕生したばかりの新中国にとって、ソビエトの経済援助の中止は大きな痛手でしたが、世紀の実験といわれた人民公社の成功などによって、めざましい回復をなしとげました。
また、1966年には紅衛兵を中心にはじまったプロレタリア文化大革命の嵐が、10年近く吹き荒れ、文革がおさまるころ、新中国の指導者、周恩来と毛沢東をあいついで失いました。
そうしたなかでも、中国の国際的地位は着々と高まりました。1971年には、それまで自由主義諸国の多くが、中国の正統政府としてみとめていた台湾の国民政府にかわり、中国が国連にはいりました。翌72年には日本も新中国と国交正常化のとりきめを調印しました。
革命30年で近代国家に生まれかわろうとする中国は、いま、日本のよいところを社会主義の中に活かす努力をしています。日本も侵略戦争を反省しながら、隣国の中国と友情を深める努力をしています。しかし、第2次大戦後、30年近い交流の空白があり、おたがいを理解できるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。

補足事項
中国(中華人民共和国)は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949〜1978年)と搶ャ平時代(1978年〜現在)の2つに大きく分けて考えられています。毛沢東のひきいた時代は、社会主義化を促進して大きな成果をあげましたが、たくさんの餓死者を出すなど、政策は失敗に終わりました。さらに、経済の建て直しをめぐる対立から、毛沢東は文化大革命を発動して、反対派とされた人たちをつるしあげたり抹殺するなど、国内は内乱状態になりました。
文化大革命は1978年の毛沢東の死により終結し、かわった搶ャ平が経済開放政策を打ち出しました。これをきっかけに、中国の近代化や経済の急成長をもたらしたことは高く評価されています。1997年の搶ャ平死去後も、江沢民、胡錦濤といった指導者たちは基本的に搶ャ平路線を引き継いでいるといってよいでしょう。しかし、急速な経済成長によるひずみが、貧富の拡大、空気汚染をふくむ環境破壊など、あちこちに露呈されています。共産党の一党独裁を維持するために、強行なやり方で分裂や脅威となる動きを封じる姿勢に、国際的に危惧がいだかれているのも事実です。
なお、中国は現在、ブラジル、ロシア、インドと並んで「BRICs」(ブリックス)とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。

投稿日:2007年04月04日(水) 09:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)