前回(4/25号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第22巻「ソビエト(2)」 の巻末解説を記します。なお、ソビエト(ソ連)は、1991年、ロシアをはじめウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、グルジアのバルト3国を除く旧ソ連の12の共和国が、「独立国家共同体」(CIS)というEU(ヨーロッパ連合) 型のゆるやかな国家連合体を形成しています。
「ソビエト(1)」について
ソビエトは、アジアからヨーロッパにまたがる全世界の陸地面積の約1/6を占める世界最大の国です。人口は*[約2億7000万人]で、中国、インドについで第3位です。正式の国名は「ソビエト社会主義共和国連邦」、世界で最初の労働者・農民による社会主義国です。民族平等の立場にたって、15の共和国が連邦国家をつくっています。1917年のロシア革命以来、わずか50年あまりのうちに、封建的な帝政ロシアから、いっきにアメリカ合衆国と肩をならべる世界の大国になりました。しかし、ここまでくるまでには、大変きびしい試練を重ねてきたことを忘れてはなりません。
*[旧ソ連最大のロシア共和国の人口は、2005年現在1億4300万人で、中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタンについで第7位]
ソビエトは、1917年のロシア革命迄はロシア帝国とよばれ、皇帝(ツァー)のおさめる国でした。ロシア帝国は、17世紀の後半皇帝についたピョートル大帝の時に確立し、繁栄しましたが、その後は、皇帝や貴族たちが自分勝手な政治をおこなったために、国民の大部分は実に貧しい生活においやられていました。その苦しい生活のありさまは、ゴーゴリやドストエフスキー、ツルゲーネフらの作品に浮き彫りにされています。1900年前後には国内のあちこちでストライキがおこり、農民は暴動をくりかえしました。ツァーの政府は、貴族や地主に対する農民のうらみを外にそらすため、極東で勢力争いをしていた日本と戦争をはじめました。これが日露戦争(1904〜05年)です。その敗北により帝政ロシアの無力さが暴露され、国民は政府を信用しなくなりました。1905年1月、十数万人の労働者の群れは、自分たちの苦しみをツァーに直訴しようと、大がかりなデモ行進をしました。ところが政府の軍隊は、これに発砲し、何千人もの死傷者を出す「血の日曜日」事件をひきおこしたのです。
さらに1914年第1次世界大戦がおこると、イギリスやフランスから大資本をかりていたロシアは参戦せざるを得ませんでした。しかし敗北がつづき、2年間に500万人もの死傷者を出しました。しかも戦争はいつ終るとも知れないのです。おまけに国内は大ききんにおそわれ、重大な食料危機におちいっていきました。
1917年2月、20万人の労働者や婦人が「パンをよこせ!」「戦争をやめろ!」「専制政治をたおせ!」と叫んでストライキやデモをおこしました。それはたちまち革命の波となって、ロシア中に広がり、いたるところで虐げられた民衆が立ちあがりました。もはや皇帝も政府も軍隊も、民衆のいかりをおさえることができず、300年以上もつづいたロマノフ王朝はたおれ、臨時政府が生まれました。二月革命です。しかし、この政府も、ブルジョア政権により革命を実現することをめざすメンシェビキが中心だったため、あいつぐ改革にもかかわらず乱れた国内を統一することはできませんでした。
このとき、労農政権や民族解放などを主張するボルシェビキの人々をひきいて革命を指導したのがレーニンです。1917年10月25日(新暦11月7日)、レーニンの指揮のもとに赤い旗印をかかげて革命をおこし、労働者と兵士の代表ソビエトが完全に権力をにぎることになりました。これこそ、人類史に新しい局面をひらいたロシア十月革命です。新政府は,まず第1に戦争はすぐにやめようと、ただちにドイツと単独講和を結びました。つづいて、大資本家のもっていた工場や鉱山、銀行、交通、商業などの設備をすべてとりあげて国営とし、地主や教会がもつ土地は農民にわけることにしました。土地の私有を認めず、働く人だけが土地を使えるようにしたのです。
ところが、新しい政治がおこなわれはじめると、貴族や資本家、地主たちはこれまでのような生活ができなくなるので、新しい政府をたおそうと立ちあがりました。その上、資本主義の国であるイギリス、フランス、アメリカ合衆国、日本など14か国が、自分の国に社会主義革命がおこることをおそれて、ソビエトに軍隊をおくったり、経済封鎖をするなどして、新政府をたおそうとしました。まさに、新政府は内外に敵をうけて、死ぬか生きるかの重大事に至ったのです。しかし、ソビエトをまもる赤軍はよく戦って、反革命軍や外国軍隊(白軍)に勝ち、ソビエト政権を守りぬきました。
ところが、打ちつづく戦乱のため国内はまったく荒れはて、あらゆる物資が欠ぼうしました。おまけに1920年には、おそろしい干ばつにあって飢え死にする人も数えきれない程です。このままにしておくと政権があぶないとみたレーニンは、1921年新経済政策(ネップ)をうちだしました。それは、新しい政治のやり方をしばらくゆるめ、それまで厳しくとりしまっていた個人で工業や商業を経営することをある程度まで許し、国土再建や経済発展のために、先進西欧諸国から資本や技術を導入しました。こうして、ネップの力を借りて、国の経済を立ちなおらせると、社会主義の建設こそ一番大切な仕事であることを確認しあい、遅れた農業国を大工業国にする努力をはじめたのです。これが、1928年にはじまった有名な第1次5か年計画(1928〜32年)のスタートでした。
ソビエトがこの計画を発表したとき、世界の人たちは夢物語としてばかにしたものでした。しかし、ソビエトにとってみれば、これが成功するかどうかは社会主義の国が成り立つかどうかの闘いでもあったのです。その結果は、予定より9か月も早い4年3か月で全計画が100%以上成しとげられました。まるでアラジンのランプの魔人のように、ウラルの山中にこつぜんと大製鉄所をつくり、ドニエプルに大発電所を生みだしたのをはじめ、新しくできあがった工業都市100以上、20万をこえる集団農場(コルホーズ)と5000の国営農場(ソフホーズ)がつくられました。まさに計画は大成功をおさめたのです。
*1991年ソビエト崩壊に至るまでのいきさつ、その後の歩みにつきましては、次回「ソビエト(2)」の巻末にまとめて記載します。