前回(3/13号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第4巻「スペイン・ポルトガル」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。
「スペイン・ポルトガル」 について
[スペイン] 中世の姿をそのままのこす華麗な古城、情熱的なフラメンコの旋律、壮烈きわまる闘牛風景など、スペインの横顔は実に多彩で魅力的です。
面積約50万平方km。イベリア半島の8割を占める広大な土地ですから、その風土や気候も一様ではありません。台地メセタには砂ばくにもひとしい雨量ゼロの炎熱地帯もあれば、地中海沿岸などの平地には常春のリゾート地帯がひらけているところもあります。国民の大半が農業に従事するいわゆる農業国ですが、農民個々の耕作は小規模で、その生活レベルは欧州諸国のなかでも低い水準にあります。鉱・工業もあまりふるわず、スペインの産業経済は全般的に近代化の遅れが目立ちます。
一時代は、ヨーロッパ最強の海洋王国として栄え、中南米やアフリカに自国の数十倍もの領土を掌握したスペインでした。しかしその栄光も、不合理な植民地政策に反発をかうなど不評のうちにしだいに色あせてゆき、20世紀までには大部分の植民地を失ってしまいました。その間、合理的な国策をとった他のヨーロッパ勢に追いぬかれ、スペイン自体は政情混乱に陥ってゆくのです。特に1930年代は目まぐるしく政権が変わり、内紛がくりかえされました。1939年、やがてフランコ将軍の統轄下におさまり、その独裁政治が36年間続きます。フランコ没後は、アリアス政権を経てスアレス政権へと移りました。新生民主主義をうたうスアレス政権は1977年の総選挙で二院制国会を成立させ、次いで新憲法を制定しました。内戦をさけ対外的にも中立政策をとり、平和主義をつらぬこうとするのが現代スペインの姿です。
スペインは、古代からいろいろな人種の侵略を受け、支配されるなかで文化を吸収し、やがてはカトリック教徒の勢力を糾合して本土を奪回する、という歴史的背景によって独特の民族性を形成してきました。その根強いカトリック精神とバイタリティのある体質には、スペイン再発展の大きな可能性が秘められていることでしょう。
[ポルトガル] バスコ・ダ・ガマらポルトガルの航海者たちが、スペインと植民地探検に覇を競ったのは15世紀から16世紀にかけてでした。日本史にも 「鉄砲伝来」 とか「キリスト教伝来」 などと、その西洋文明に初めて接触したいきさつが記されており、一時期ながらわが国とも深い友好関係にあったことを物語っています。当時伝えられたポルトガル語の品名などは、現在でも私たちの生活になじんでおりますし、ポルトガルを訪れても同じことばを耳にすることができます。
さて、かつての植民地帝国ポルトガルも、約500年の間にはスペイン同様の運命をたどりました。アフリカのアンゴラとモザンビークが革命政権下に相次いで独立し、ポルトガル最後の大植民地が離れていったのは、1975年でした。
面積は北海道よりやや大きく、およそ9万平方km。海洋国だけに大西洋岸の岬から岬を結ぶ航路は発達していますが、反対に鉄道の延長は遅れ、自動車も輸入に頼る状態で、いまだに牛やロバが輸送の役割を担っています。主力の農業も技術の遅れからいまひとつ生産性があがりません。ただ、ブドウ酒やコルクの単一産業が世界に名高いことは本文でも述べましたが、人気のある観光地もまた、隣国スペインと同じく外貨を稼ぐドル箱資源です。
同じイベリア半島に隣り合うポルトガルとスペインですが、その国民性や風俗には、やはりそれぞれ個性的な相違がみられます。たとえば、フラメンコの激情的なリズムに対してポルトガル民謡のファドは哀感調です。ポルトガルにも闘牛はありますが、スペインのようにとどめを刺しません。そんなところに、スペイン人の激しさとポルトガル人の穏和な側面がうかがえるのです。
補足事項
EC(ヨーロッパ共同体)には、スペイン、ポルトガルともに1986年に参加、1993年EU(ヨーロッパ連合)になってからも、積極的に推進するメンバーとなっています。通貨も、2002年に、ユーロに完全に切り替わりました。