「おもしろ古典落語」の103回目は、『しの字(じ)ぎらい』というお笑いの一席をお楽しみください。
「権助や」「へぇ、なにかご用ですか?」「用というわけじゃないが、いまは正月だ。正月になにか縁起が悪いことがあると、一年中いやなことがあっちゃいけねぇ。そこで、おまえにいいわたすが、正月いっぱい[し]という字を封じることにする」「[し]っていうのはそんなに縁起が悪いかね?」「悪いな。第一、死ぬとある。死ぬほど人間にとって悪いことはない。しくじる、しばられる、身代限りをする、[し]というのはろくなものはない」「あははは、物は考えようだでな。おらが故郷(くに)にいたころ、物知りのご隠居にきいたことがあるんだが、善も悪もおのれの心でどうにでもとれるということだ。[し]の字は、使いようによっちゃ、死なぬ、しくじらぬ、しばられぬ、身代限りをしねぇなんていえば、かえってよくなるでねぇか。しかし、おめぇさまが気になるっていうなら、なにごともご主人さまのためだ、なるたけ使わないようにしますだ」
「なるたけじゃなく、決していってはならない。もし[し]といえば、ひと月分、2ついえば2月分の給金をさしひくから、そのつもりで気をつけて口を聞くように」「するてぇと、12いえば、1年間無給かね。どうもよくねぇしゃれだ」「しゃれではない。わたしの家の家風だ」「そんな家風があるなんてなぜ奉公にきたとき、いいわたしてくれねぇだたか? まあ、ようがす。おれもこういう強情な人間だから、いわねぇと決めたらいわねぇ。けれど、おまえさん、人にばかり封じて自分がいっちゃぁ、だめだべ」「わしは、いわない。もしも、わしがいったら、なんでもおまえの望みをかなえてやろう」「そうと決まれば安心だ。おらぁ、いわないが、少し言葉がぞんざいになるかもしれねぇが、しかたねぇ」「そう、のべつ[し]をいっちゃいけねぇ」「だって、まだ決めねぇうちはよかんべぇ」「じゃ、いいかい、手を二つ打つから、はじめるよ(ポンポン)」
(なんともへそ曲がりな奴だな。…ああ、いま水を汲んでるようだな、『権助、水を汲んだか』といやぁ、いつものように『汲んでしまいました』というに違いない。これをだしぬけにやるに限る) 「おい、権助や、水を汲んだか?」「へぇ、水は汲んで……あああぶねぇ、汲んで終わった」(なかなか、用心しているな。……いいことがある。本家の嫁のうわさをよくしていて、あの嫁はどこもかしこもよいが、尻が大きいと近所の評判だっていってるから、これをいわせてやろう) 「権助、ちょっと、こっちへおいで」「へぇ、いま、だれもいないからおまえに聞くが、こんどきた本家の嫁のうわさを近所でするものがいるだろ?」「うん、近所の若ぇもんが…」「うん、なんというな」「本家の嫁ごは、きりょもええ、ものもよくできる、ええおなごだが…それっ、けつがでけぇ」「これっ、けつとはなんだ。あっちへいけ」
なんとか権助を困らせようと、今度は、四(し)貫四百(しひゃく)四十四(しじゅうし)文の銭(ぜに)を並べて勘定させれば、たくさんの「し」や、さし(銭をつなぐ細い縄の名)をいわないわけにはいかないと、たくらみます。
敵もさるもの。銭をまとめる縄をなんというと聞けば、「おめえさま、教えてくんなせぇ」と聞きかえすし、四貫四百四十四のところにくると、ニヤリと笑い「三貫に一貫 三百に百 二十二に二十二文だ」「そんな勘定があるか。ちゃんといえ」「よん貫よん百よん十文」「この野郎、しぶとい野郎だ」
「ほーらいった。この銭はおらのもんだ」
「1月25日にあった主なできごと」
1212年 法然死去…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然が亡くなりました。
1858年 御木本幸吉誕生…「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した御木本幸吉が生まれました。