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真田小僧

「おもしろ古典落語」の77回目は、『真田小僧(さなだこぞう)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「おとっつぁんは、いいおとっつぁんだね、ものわかりがよくって、気前がよくって、近所でも評判だよ」「子どもが親に、おせじなんぞいうない。はやく遊んでこい」「へへへ、おとっつぁん…いくけど、なんか忘れものがありませんかね、まるいもの」「このやろう、銭がほしいんだろ、ダーメ、銭なんぞ」「少しぐらいいいだろ」「子どものうちから銭を使うと、ろくなもんにゃならねぇ」「でも、おとっつぁんぐらいにゃなれらぁ」「おれぐれぇになれりゃ、豪儀なもんだ」「おとっつぁんより悪けりゃ乞食だ」「ひっぱだくぞ、こんちくしょう。ダメだ」「じゃあ、おっかさんにもらうからいいよ」「おまえは甘い。おれが、金坊にはやるなってひと言いったら、くれるもんか」

「へへへ、考えが甘いのはおとっつぁんだ。この間、おとっつぁんが留守のとき、よそのおじさんがきたことを、あたいがほうぼうへいってしゃべってやるって、おっかさんにいうだろ。おっかさんは、きっと青くなって、『そんなことしゃべっちゃいけないよ』って銭くれるよ」「えっ、そりゃぁどういうことだ」「ほら、のりだしてきたな。話をしてやろうか」「うん、してみろ」

「おとっつぁん、寄席へ行ったことある?」「しじゅう寄席にいってるの、知ってるだろ」「寄席ってぇのは、話を聞いてから木戸銭払うの、払ってから話を聞くの?」「あたりめぇじゃねぇか、聞いてから木戸銭を払う寄席なんぞあるもんか」「だったら、話す前に銭をおくれよ」「わかったよ、さぁ1銭やるから話しちゃえ」「よそのおじさんが『こんにちは』って入ってくるとね、『あーら、ちょいとまぁ、ちょうどいいときにきておくれだね。こっちへあがっておくれ』って、おじさんの手をとって、おっかさんが部屋へあげたんだ」「うんうん、それでどうした」「あとが聞きたければ、2銭おくれ」「今やったばかりだろ」「さっきのは1銭、これからさきは2銭の値打があるんだ」「いやなやつだな、ほら2銭」「ありがとう…、それからおっかさんが『金坊、おまえはうるさいから、どっかへいっといで』って銭をくれたんで、遊びにいっちゃった」「ばか、そういう時はそばにくっついてろ」

「でも、気になるから帰ってきたら、開いてあった障子がぴったり閉まっていたよ。あたいが障子ぃ穴を開けて、中をのぞいてみたらね」「なにをしてた?」「ここまでが2銭の切れ場、これからは3銭になるんだ」「つり上げやがったな、この野郎、もってけ3銭だ!」「…その男のやつ、おっかさんの肩なんぞに手をやったりなんかしてるんだ」「うーんっ」「その男がこっちをヒョイと見たからね、あたいもそいつの顔を見たんだ」「だれだっ」「それがつまらねぇ話、横町のあん摩さんだった。どうも、ありがとう」

金坊が逃げていってしまうと、帰ってきた女房とふたりで、すえ恐ろしいガキだ、今に盗賊になるかも知れないと嘆くことしきり。それに引き換え、講釈の『真田三代記』にでてくるあの真田幸村公は、えらくなろっていう人は、子どものときからちがう。金坊より一つ上の十四歳の時、父真幸について、天目山の戦いに初陣、多勢に取り囲まれて真幸が切腹の覚悟をした時、せがれの幸村が自分に策があると申し出て、敵の松田尾張守の旗印である永楽通宝の六連銭の旗を立てて、敵陣に夜襲をかけ、混乱させて同士討ちを誘い、見事に信州真田まで逃げ延びた。それ以来、真田の定紋は二ツ雁から六連銭になった。この真田幸村という人は、のちに大坂落城のおり、切腹して死んだという話があるが、講釈師にいわせると薩摩に落ちのびたという。あれくらいの人だから、薩摩まで落ちのびたというのがほんとうかも知れない──と親父が女房に話してきかせているところへ、金坊のご帰還。

いつの間にか盗み聞きしていて、「えへへへ、さっきはごめんね。ところでおとっつぁん、六連銭の旗ってどんなふうになってるの?」「六っつ連なる銭と書いて六連銭だ。いいか、上へ3つ、下にも3つだ」「よくわかんねぇな、並べて見せておくれよ」「うるさいやつだな、なんでもトコトン聞くのがおまえのいいとこで、悪いとこだ。おっかぁ、そこの引出しに、穴のあいた五銭玉が、ひもにくくってあるだろ。こっちへかしてくれ。いいか、上にひぃ、ふぅ、みぃ…、下にひぃ、ふぅ、みぃ」「あたいもやってみるね、こうして全部にぎっておいて、…わーい、もーらった、もらった」「あっ、また親をだましぁあがったな。やい、それを持ってどこへ行くんだ」「今度は焼きイモを買ってくる」

「あぁー、うちの真田も薩摩へ落ちた」


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した源頼朝は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1614年 角倉了以死去…豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった角倉了以が亡くなりました。

1925年 ラジオ放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

1966年 鈴木大拙死去…禅の悟りについてなどを英語で著し、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者の鈴木大拙が亡くなりました。

投稿日:2012年07月12日(木) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)