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北方の王者・藤原清衡

今日7月13日は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏をおこし、平泉に「金色堂」を建てた藤原清衡(ふじわらの きよひら)が、1128年に亡くなった日です。

陸奥国の豪族藤原経清と、安倍頼時の娘の間の子として生まれた清衡は、父が「前九年の役」(1051〜1062年、 安倍氏が滅び清原氏が東北の覇者となった戦)で殺されたのち、母は清原武貞と再婚、清衡は二人の養子となりました。

やがて、清原家の複雑な兄弟関係のもつれで一族のあいだに激しい対立がおこり「後三年の役」となると、清衡は大苦戦の末に、陸奥守としてこれをしずめる役割をになった八幡太郎・源義家とたくみに同盟関係を結び、義家の助けを借りて1087年、清原一門を滅ぼしました。こうして、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡の総称で、現・奥州市から盛岡市にかけての地域)を領する勢力者となった清衡は、父の姓である藤原にもどし、奥州藤原氏の祖となりました。

清衡は、「蝦夷」とか「道の奥」といわれた広大な地に勢力拡大をはかるいっぽう、京都の藤原氏と交流を深め、奥羽の統治者としての地位を築き、1094年ころには平泉に居を移して、政治文化の中心都市の建設に着手しました。

1108年には、中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくりました。こうして清衡の政治支配は、南は白川関から北は奥羽湾岸までの範囲に及び、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡と100年にわたる栄華の基礎を築きました。戦乱の続く京都を尻目に、平泉は、ひとつの独立した政府のような発展を続けました。

1124年清衡は、中尊寺に、当時の技術の粋を集めた金銀螺鈿(らでん)をちりばめた「金色堂」の建立を開始しました。のちに芭蕉が「五月雨の降り残してや光堂」とうたったことは有名です。清衡はこの金色堂が完成した翌年、当時としては長命の73歳で亡くなりました。遺体は金色堂に安置されています。

なお平泉は、「平泉の文化遺産」として2011年、世界遺産に登録されました。


「7月13日にあった主なできごと」

BC100年 シーザー誕生…古代ローマ帝国の基礎を築いた軍人政治家で、「ガリア戦記」を著わしたシーザーが生まれました。

1930年 サッカー初のW杯で国交断絶…サッカーのワールドカップの第1回大会がこの日はじまり、13か国の選手がウルグアイの首都モンテビデオで熱戦をくりひろげました。勝ち進んだのはウルグアイとアルゼンチンで、ウルグアイが4対2で逆転優勝しました。ところが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暴動がおき、ウルグアイの領事館が襲われて国交断絶にまで発展しました。

投稿日:2012年07月13日(金) 05:39

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)