今日7月17日は、中国明朝第3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)が、1424年に亡くなった日です。
14世紀のなかば、それまで中国を支配していたモンゴル人の王朝「元」をほろぼして、洪武帝が明の国を建てて、南京を首都としました。
1360年に洪武帝の4番目の子として生まれ永楽帝は、顔つきも身体も堂どうとして、知恵にも武勇にもすぐれていたため、父から信頼されていました。燕王という名をもらい、モンゴル人の侵略から国を守るために、北方へおもむきました。洪武帝が死ぬと、次に即位したのは孫の建文帝です。建文帝は家来たちのいうままに、燕王やほかの有力者たちの権力を奪おうとしました。これを知った燕王は兵をあげて、4年間もの戦いのすえ、ついに南京をおとしいれました。戦いにやぶれた建文帝は燃えあがる宮殿のなかで死んでいきました。こうして、燕王は明の3代目の皇帝、永楽帝となったのです。
永楽帝は北京を明の新しい首都とし、壮大な宮殿を築きました。そして、明の力を世界に示そうと、モンゴル、シベリヤ、チベット、安南(いまのベトナム)、朝鮮、日本にまで兵を送り、または使者をやって明に従うよう命じました。さらに、鄭和(ていわ)を総司令官として大船隊による南海遠征を行なったことでも有名です。これは東南アジアの諸国に明へ貢物をさせ、貿易によって利益を得ようとする目的をもった遠征でした。そのため、これらの船は「宝船」または「西洋取宝船」とよばれました。
1405年、劉家港(いまの上海の西北)に集まった第1回の遠征隊は、総数62隻、乗組員2万8000人という大船隊でした。そのなかには長さ約140メートル、幅16メートルの船もあり、いずれも見あげるような巨大船ばかりでした。この南海遠征は7回も行なわれ、大船隊は、マラッカ、パレンバン、スラバヤ、セイロン(いまのスリランカ)、カリカットなどを訪れました。なかには、遠くインド洋、アラビヤ海をわたって、ペルシャ湾のホルムズ、アラビヤのアデン、アフリカの東海岸にまで達した船隊もあります。大船隊は各地で大いに明の勢力を示し、諸国のめずらしい品物やライオン、キリンなどの動物をみつぎものとして持ちかえりました。
また永楽帝はモンゴル族を討つため、自ら大軍をひきいて砂漠をこえて北へ進み、3度にわたって勝利をおさめました。しかし5回目の遠征のとき、病気にかかり、楡木川(ゆぼくせん)というところで亡くなりました。雄大な生活を好んだ皇帝らしい最後でした。
なお、永楽帝は、図書の編さんに力を入れ、中国最大級の百科事典ともいえる『永楽大典』をまとめさせました。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し宦官を重用したことで、後代における宦官による政治腐敗の原因をつくりました。
「7月17日にあった主なできごと」
1604年 徳川家光誕生…江戸幕府第3代将軍として、参勤交代制、キリシタンの禁制、鎖国などを断行して、幕府の全国支配体制を確立した徳川家光が生れました。
1795年 円山応挙死去…江戸時代中期の絵師で、『雪松図屏風』など、写生を重視した日本画を完成した円山応挙が亡くなりました。
1868年 江戸が東京となる… 明治天皇は、幕府のあった江戸を東京と改め、首都としました。これまでの首都は京都にあり、東京は京都の東にあたるため「東京」となりました。